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サータヴァーハナ朝



サータヴァーハナ朝, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=106776 / CC BY SA 3.0

#インドの王朝
#古代インド
サータヴァーハナ朝(Sātavāhana、紀元前3世紀/紀元前1世紀? – 後3世紀初頭)は、古代インドの王朝である。
プラーナ文献では、アーンドラ朝とよばれる。
サータヴァーハナが王家名で、アーンドラが族名である。
デカン高原を中心とした中央インドの広い範囲を統治した。
パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が発達した。
この時期の遺跡からは、ローマの貨幣が出土することで有名である。
王たちは、バラモン教を信仰したが、仏教やジャイナ教も発展した。
サータヴァーハナ朝の発祥地や勃興の経緯は詳しくはわかっていない。
発祥地の候補としては首都が置かれたプラティシュターナ(現パイタン)であるとする説や、クリシュナ川沿岸のダーニヤカタカとする説、あるいはベッラーリとする説などが有力説である。
初代の王はシムカと伝えられており、彼とそれに続く初期の王の刻文と貨幣がゴーダーヴァリ川上流から発見されることからデカン高原西部地方から発展したと考えられる。
この王朝が残した碑文から、王家の姓がサータヴァーハナであると伝えられている。
族名を取ってアーンドラ朝とも呼ばれるこの王朝であるが、サータヴァーハナ家自体はもともとアーンドラ人ではなく、「アーンドラの従属者」であったという。
一説にはデカン高原西方で成立したこの王朝がやがてアーンドラ地方を支配するようになった段階で文献記録が残されたため、サータヴァーハナ朝はアーンドラ朝と呼ばれるようになったという。
アーンドラ人はゴーダヴァリー川とクリシュナ川に挟まれた地方に住む人々であった。
ヴェーダ文献ではアーンドラ人はダスユ(夷狄 非アーリア人)と呼ばれており、恐らくドラヴィダ系の集団であったといわれている。
王朝が開始した時期は、前3世紀説と前1世紀説がある。
紀元前3世紀頃には独立王国を形成していたが、北から勢力を拡大するマガダ国のマウリヤ朝に圧迫されていた。
しかしアショーカ王没後のマウリヤ朝の混乱の中で次第に勢力を拡大し、1世紀までに中央インド随一の大国へと成長していった。
プラーナ文献にはシムカ王がカーンヴァーヤナ(カーンヴァの裔の意 カーンヴァ朝)とシュンガ一族の残存者を滅ぼして王位に付いたと記されており、どちらの説を採用するとしても有力勢力として台頭するようになったのは前1世紀頃であったと考えられている。
シムカの弟クリシュナの治世を経て、シュリー・シャータカルニ王の時代には東部マールワ地方も征服してその勢力を拡大した チェーティ朝(カリンガ国)の王カーラヴェーラの攻撃を受けて国内が混乱した。
シュリー・シャータカルニ王が死去すると、その息子達が幼かったため王妃ナヤニカーが摂政となって実権を握ったという。
これ以降しばらくの間、サータヴァーハナ朝の歴史はほとんどわからなくなる。
王名等が諸文献に記録されてはいるが、異同があり正確な王統の復元も困難である。
サータヴァーハナ朝は1世紀頃にはサカ族(西クシャトラパ等)に圧迫されていたが、2世紀初頭に、ガウタミープトラ・シャータカルニ王が現れると、西クシャトラパ(クシャハラータ朝)の王ナハパーナを倒し、西北デカンの地を回復するとともに北はマールワやグジャラートまで領域を拡大し、南はクリシュナ川畔まで及んだ。
彼の残した碑文には「サカ人、ギリシア人、パルティア人を滅ぼした」とある。
彼の治世から再びサータヴァーハナ朝の歴史を具体的に読み取ることが可能になる。
彼の子プルマーイーの時代には「南国の主」とまで呼称された。
しかし、ヴァーシティープトラ・シャータカルニ王は、西クシャトラパ王ルドラダーマンと戦って敗れた。
このため若干の領土を奪われたが、ヴァーシティープトラ王の王妃がルドラダーマンの娘であったため、ルドラダーマンはサータヴァーハナ朝を徹底的に破壊することなく引き上げた。
2世紀末にヤジャニヤ・シュリー・シャータカルニ王のときに再びグジャラートを取り戻す勢いを示し、この王の貨幣がグジャラートのサウラシュートラ半島からも出土している。
しかし、3世紀に入ると中央政府の統制力は弱まり、地方に派遣されていた王族や諸侯達が各地で自立して急速に崩壊した。
サータヴァーハナ朝の国制についての情報は、主に碑文などに記録された官職などから得られるものである。
しかし、碑文記録はいずれも断片的で、量も到底十分とは言えず詳細を知ることは難しい。
サータヴァーハナ王家は自らの出自がバラモンであることを誇り、またナーガ族とも血縁があ…