
「自分の名前を冠した公演は、演目も配役も普段よりしっかり認識した中で作っていける」と話す市川團十郎=大阪市北区(南雲都撮影)
圧倒的なオーラと華。舞台上はもちろんだが、いつ取材で会っても、日本人離れしたスタイル、率直な発言に驚かされる。しかし、彼の内にあるのは、まがうことなき日本人の魂であり、日本への愛である。十三代目市川團十郎白猿(48)。令和4年に歌舞伎界で最も大きな名跡を襲名。その目は今や、世界を見つめている。歌舞伎の未来を作り上げるため、突き進んでいく21世紀の團十郎像とは―。
「團十郎を襲名して変わったのは、戦でいうと馬上の姿勢ですね。もう少し多くの人たちを見回すような、ある種、将軍のような目線が必要とされるのかなと思っています」
この印象的な発言は、実は襲名して2年後にインタビュー取材したときの言葉。あれから2年たち、改めて、この言葉をぶつけてみると、「えっ、こんな偉そうなこと、言ってた?」。快活に笑いながら驚いた様子を見せた。
だが、いやいやどうして、近年の彼の活動は歌舞伎界、そして日本の文化全体を見据えている。まさに、「将軍の目線」ではないだろうか。
歌舞伎界にあって、「市川團十郎」という名跡は特別な意味を持つ。江戸時代の初代團十郎、二代目團十郎は現代にまで連綿と続く、勇壮でおおらかな江戸の荒事という芸を創始。團十郎家は代々、歴史に名を刻む多くの名優を輩出し、多大な功績を遺してきた。江戸歌舞伎の象徴というだけでなく、歌舞伎界を代表する立場にもある。
当代は、若い頃には、やんちゃなエピソードも聞こえてきた。父、十二代目團十郎亡き今、團十郎が父親のように敬愛している人間国宝の中村梅玉は、「風格が出てきて、今や立派な十三代目團十郎です」と太鼓判を押すほどになった。
自らも、「『市川團十郎』という名跡は特別だと思う」と唇を引き締める。「歌舞伎界が秩序をもって回っていくためにも、團十郎という存在がいることが大切」と。
その言葉の真意は、尊大だとか、自信だとかというものではない。歌舞伎という400年続いてきた伝統芸能を、先祖から受け継ぎ、次に渡していくため、自身に使命感を与えているようにも感じられるのだ。
活動の一環として力を注いでいるのが、歌舞伎を初めて見る人や外国人に、歌舞伎に親しんでもらおうという企画公演だ。
10月3日から京都の南座で始まる「市川團十郎特別公演」(25日まで)では、昼の部で家の芸である歌舞伎十八番の内「勧進帳」などを上演、古典歌舞伎の醍醐味を披露する一方、夜の部では歌舞伎の初心者を対象に、自らの発案で「Invitation to KABUKI 歌舞伎の世界」と銘打つ公演を行う。
従来の歌舞伎ファンと初心者の両方を対象にした企画。特に夜の部では、歌舞伎十八番の内「押戻し」を元に、新たな作品として「荒事 大力天無双(だいりきてんのむそう)」を作り上げ、團十郎自ら観客の目の前で、化粧をし衣装を着けていく過程を披露する。その後、荒ぶる龍の化身と、龍を押し戻す大舘左馬五郎の2役を、「1秒とかからぬくらい」の早替りで演じ、荒事の魅力を伝えたいという。
「昨年も南座で、化粧をする過程などを舞台上でお見せしたのですが、同じことをやっても面白くない。今年は進行を息子の(市川)新之助に任せ、私が2役演じてエンターテインメントとしての歌舞伎を楽しんでいただきたい」。そして、「今の時代、制作過程をお見せするプロセスエコノミー的な要素も必要だと思います」。
そこには、経済、文化など現代社会の世相や流行に、敏感にアンテナを張り巡らせ、歌舞伎に生かすアイデアを模索するプロデューサーとしての目線もある。
昼の部の「勧進帳」は、「うちの家にとって最も大切な作品」というほど並々ならぬ思い入れがある。
平家滅亡後、兄の頼朝と不仲になり、都を落ち、山伏一行に化けて奥州に逃れてゆく義経と家来の弁慶ら。途中の安宅の関で、関守の富樫に見とがめられるが、弁慶の命がけの忠義により、一行は安宅の関を突破する。
團十郎は、大きな節目ごとに弁慶を演じ、これまで十数回にわたって、この大役と向き合ってきた。
「ただ、團十郎を襲名してから、『勧進帳』への思いも変わってきた」と明かす。
そもそも「勧進帳」は、江戸後期の歌舞伎界の大立者だった七代目市川團十郎が、天保11(1840)年、江戸の河原崎座で初演した作品。七代目は、初代團十郎が弁慶を演じた「星合十二段」という演目と、能の「安宅」を元に、歌舞伎「勧進帳」を作り上げた。
能の「安宅」には、義経一行を通した富樫が、弁慶らに酒をふるまうが、毒を疑った弁慶が酒を捨てる演じ方もある。
「ですが、七代目團十郎は、毒であろうと構わず飲むと。自分は死んでもいい、この人(義経)を通してくれるなら、という思いなのです。そこにも荒事の精神があり、七代目はそういうことを考えて『勧進帳』を作ったと思う。そんなことを想像しながら演じられるようになったのは、團十郎になってからですね」
團十郎の「勧進帳」では、忘れられない舞台がある。
平成19年、パリのオペラ座で史上初めて行われた歌舞伎公演。十二代目團十郎と團十郎(当時、海老蔵)による「勧進帳」が上演された。弁慶と富樫は2人のダブルキャスト。2つの異なる演出で行われたのだ。
弁慶の引っ込みというと、花道の豪快な飛び六方。だが、オペラ座に花道はない。十二代目團十郎は本舞台と客席の間のオーケストラボックスに張り出した舞台上を花道に見立て、上手から下手へ飛び六方で引っ込んだ。
一方、当代の團十郎は、客席通路を花道に見立て、本舞台から勢いよく客席に降りてきたかと思うと、そのまま狭い通路を疾風怒濤のごとく飛び去ったのだ。
実は引っ込みの演出を巡って、父子は随分もめたという。
「父はもう『勝手にしろ』と。でも僕は自分のやり方を貫きました。父は歌舞伎の様式を重視した人間。僕は歌舞伎のパッションを重視した人間。いいんですよ、違って。(長男の)新之助がそうしたいというなら、僕は止めない。じゃあ、もっと面白いこと考えてやると思いますね。だって、その方がカッコいいじゃないですか」
それこそが、團十郎の生きざまである。
いちかわ・だんじゅうろうはくえん
昭和52年12月6日、東京生まれ。十二代目市川團十郎の長男。昭和58年、歌舞伎座「源氏物語」の春宮で初お目見え。60年、歌舞伎座「外郎売」の貴甘坊で七代目市川新之助を名乗り初舞台。平成16年、歌舞伎座「暫(しばらく)」の鎌倉権五郎ほかで十一代目市川海老蔵を襲名した。令和4年に歌舞伎座「勧進帳」の弁慶ほかで十三代目市川團十郎白猿を襲名。その前年に開催された東京オリンピックの開会式では「暫」を披露した。海外公演も多数。芸術選奨文部科学大臣新人賞、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。屋号は成田屋。