【4K】日本ドラマの最高峰「白線流し」✖️エーリッヒ・フロム「愛するということ」

【4K】日本ドラマの最高峰「白線流し」✖️エーリッヒ・フロム「愛するということ」



【4K】日本ドラマの最高峰「白線流し」✖️エーリッヒ・フロム「愛するということ」

#長瀬智也 #酒井美紀 #京野ことみ #柏原崇 #馬渕英里何 #中村竜 #遊井亮子
#白線流し  #ドラマ  #1990年代  #エーリッヒフロム 
今回は平成日本ドラマの最高峰、「白線流し」についての動画です。1996年1月から3月まで、フジテレビ木曜劇場枠で放映されたドラマです。このドラマは派手でセンセーショナルなドラマが全盛だった1990年代、ある意味、異色とも言えるほど地味で、でも、とても誠実で真面目なドラマでした。視聴率も、悪くはないが、というぐらいでした。ですが1990年代の当時人気を誇った派手なドラマは忘れられていく中で30年経っても語り継がれるドラマ、そうなのです。ドラマ白線流しは、そしてその後作られた続編を含めての白線流しシリーズは、同世代の若者達の心に静かに染み入って、いまだにその余韻が残っている、そんな、一言で言えば平成ドラマ史上最高峰の名作、もしかしたら日本のドラマ史上最高峰の名作、そんなドラマ、白線流しを、本当に個人的に総括する、今日はそんな動画ですので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。白線流しシリーズを一言でいうなら、これは愛の物語です。愛の物語であり、夢についての物語であり、大人になるとはどういうことなのか、の物語であり、そして永遠と刹那とは、の物語、なのだと思うのです。そしてここでいう愛の物語の愛、とは、もちろん、恋愛の愛でもあり、でもそれだけではなく、仲間への愛、親子の愛、次の世代への愛、自分への愛。そしてさらにはそう、大きな母性の愛。そうした、ただの恋愛という花火のような愛だけではなくて、人間が人間として生まれてきてそして生きていくために習得しなければならない大きな愛、それが物語の背骨、なのだと思います。この白線流しシリーズの秀逸なところはそれこそたくさんあるのですが、大きく4つを挙げます。一つは信本恵子さんの脚本。信本さんは旭川生まれ、看護師をやっていましたが一念発起してシナリオライターになります。そしてこの白線流しで連続ドラマデビュー。これはまるでまどかと冬美を足したような人生で、そんなところからも彼女にとってはこの白線流しシリーズはまさにライフワークでした。二つ目はキャスト。主要メンバーはほぼ役と同年代。18歳から27歳までの白線シリーズをまさにキャストも同じように歳を重ねながらドラマを撮っていった、というこのリアルさがこの作品に特別な光を与えています。俳優達にとってもこのシリーズはまさに家族、我が家のようなものだったそうです。3つ目は音楽。スピッツの空も飛べるはず、そして岩代太郎。岩代太郎といえば坂本龍一と並び称される日本を代表する作曲家。この音楽の秀逸さが白線流しの持つ大きな愛の物語をさらに格調高いものにしています。最後は映像。松本の風景。北海道の風景。東京の風景。そこにはテレビドラマを超えた普遍性と芸術性があります。そんな素晴らしい音楽と素晴らしい映像と素晴らしい脚本、そしてまさにこのドラマのために生まれてきたかのような素晴らしい俳優達。例えば主役の長瀬智也は、まさに大河内渉だし、酒井美紀はまさに七倉園子なのです。同時に飯野まどかは京野ことみそのものだし、長谷部優介は柏原崇そのものです。中村竜も馬渕えりかも遊井  亮子も、慎司であり、冬美であり、茅乃そのものなのです。演技というよりそのものなのです。そんな素晴らしいスタッフで出来上がったこのドラマは、高校時代の最後の半年を描いた本編とその後を2年ごとに描いたスペシャルでできています。1996年の本編では1977年生まれの高校生の夏休みから卒業までを描いています。この時の彼らはまだ大人ではない。でももう子供でもない、進路への不安、親の干渉、友達との諍い、そして恋愛。まさにその時期の高校生のリアルを描いています。彼らはそんなリアルの中でもがいています。まだ何者でもない自分。未来は不透明で、それでも卒業という終わりは容赦なく近づいている。卒業までに自分は何になれるのか、夢を決めることができるのか、あるいはできないのか。そして恋愛。奥手の園子は突然恋愛の渦に巻き込まれる。理屈ではない。ただ好きになってしまう。どうしたらいいのかはわからない。ただ会いたい。知りたい。触れたい。そうした刹那の衝動に突き動かされる園子。それは渉も同じ。身分、あえて身分という言葉を使いますが、身分が違う女の子。しかも彼の心はそれまでの大人たちによって氷のように固まっている。けれど渉は園子に出会った瞬間、理解する。この子だけが俺の心を溶かしてくれる。それはまた園子も同じ。これまでウジウジしていて何も決められなくて、臆病だった自分の心を溶かしてくれるのはこの、表面は氷のようでも、その奥には真っ直ぐとした、キラキラとした、まさに夜空の星のような純粋な輝きを持っている渉なのだと。私には渉しかいないのだと。二人とも瞬時に悟るのです。自分たちは同じだと。渉も園子も同じなのです。何が同じか。魂です。純粋でまっすぐでそして愛に溢れている魂が。ただし違うのはその出力の方法。園子は真っ直ぐそのまま放出する。渉は屈折して放出する。まるで太陽と月のように、 二人は一見正反対にその愛を放出させる。でも魂は同じ。それを二人は出会った瞬間悟るのです。 この物語は、仲間の星たちの魂も一緒に、それぞれが荒削りだったそれぞれの愛を成熟させていく物語なのです。渉は心がカラカラに乾いている人を見ると放っておけなかったのです。自分もそうだから。そうだったから。心がカラカラに乾くその辛さを人一倍知っていたから。だから茅乃の心が干上がっていることに気づくと園子を置いてけぼりにする。お前は遊びだ、と言い放ち。美里の心がカラカラなのに気づくと手を差し伸べる。わざわざ飛騨まで会いにきた園子を突き放す。それが渉なりの、園子に対する優しさなのです。渉の愛はとても純粋なのです。とても不器用なのです。まだ成熟していないのです。よちよち歩き出した愛なのです。実は園子も同じです。園子も人が困っていると助けずにはいられない。その人のために親身になる。それ自体はとても純粋なのです。本心からなのです。けれど園子もまた不器用です。真っ直ぐすごい熱量でぶつけてしまう。渉の愛も園子の愛もとても純粋です。純粋ということは見返りを求めない。そう。無償の愛なのです。二人は会った瞬間、自分と同じだと悟った。愛の形が。だから二人は瞬時に惹かれあった。でも園子も渉も愛の技法は未成熟だった。渉の愛はとても天邪鬼で、園子の愛は、人を追い詰める愛になる。その最もたるものが、渉への愛だった。渉のためを思ってしたことが逆に渉を追い詰めてしまう。園子は続編第一弾「19の春」で優介にこう言われます。俺も七倉もエゴイストだ、と。園子の太陽のような純粋な愛は、でもまだ未成熟で、エゴイスティックな愛なのだと。自己満足の愛なのだと。そうなのです。愛とは育てなくてはいけないのです。愛することにも、言葉を覚えるように、技術を学び成熟させなくてはいけないのです。二人はあった瞬間から、自分にとってこの人しかいない、という存在です。でも二人とも愛が未成熟だった。だから互いに傷つけ合い、離れ離れになった。けれどその後、お互いそれぞれの愛を、愛の技法を学ぶことで、ようやく分かり合えるようになる。最終話「夢見る頃を過ぎても」のラストシーンがまさにそうです。この時、二人の愛は初めて一つになる。渉は園子にこう言います。俺が誰も守れなかった。美里もお前も。誰かを守ることも一人になることもできない、甘えてたんだ。お前はいつまでも俺のことを理解してくれる、と。でも園子はそんな傷だらけの渉を包み込むように、そう、母のように、優しく語りかけるのです。同じものを見ていたいだけなの。一緒にいなくても。同じ星を見てると思えば、ほっとする。そしてこう言います。本当に辛い時、一人でいなくていいよ。と。このラストシーンで、初めて渉は園子の懐で泣き崩れます。自分が抱えていた固い固い殻を破り捨てて。この二人は元々純粋な愛、純粋な精神を持っていた。だから瞬時に惹かれあった。でもその愛はまだ未成熟で、本当の無償の愛ではなかった。見返りを求める愛だった。だから傷つけあった。けれど、二人の純粋さはその困難を乗り越えたのです。渉は園子に、というか、誰かに、初めて、生まれて初めて甘えることができた。実の母親にも甘えられなかった渉。誰一人甘える相手がいなかった渉。ずっと殻に閉じこもっていた渉。その固い固い殻を園子はようやく破ったのです。渉はようやく、本当の意味で素の自分を誰かに、園子に見せることができた。園子はようやく渉を何の見返りもなく、夢を押し付けることもなく、渉の夢に乗っかって自己実現を図ろうとする自己愛の延長としてではく、ただの一人の人間として、恋人というより人生の伴侶、魂の伴侶、としてようやく対等に渉を愛することができるようになった。それがこのあまりにも感動的なラストなのです。これこそ、この二人がさまざまな傷つく体験の末に持ちえた愛の力、成熟した愛の力なのです。
エーリッヒフロムの名著「愛するということ」にこんな箇所があります。愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人はきっと失望するに違いない。愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく誰も簡単に浸れるような感情ではない。これはどういうことかと言うと、生きることが技術であるように、愛することも技術である、愛は成熟させなくてはいけない、ということなのです。園子と渉は、そのことを互いに傷つけ合いながらも、それをやった。そのプロセスがこの白線流しなのです。
そしてもう一つ大切なことがあります。それが園子と渉の生来持つ、愛の種類です。園子も渉も、元々、無償の愛を持っていた。だから二人は太陽であり月だった。そしてその周囲の仲間たちを高めることができた。この無償の愛についてはガンディーの「獄中からの手紙」にこう書いてあります。愛とは生きとし生けるいっさいのものを愛すること、と。でもそれを習得するためには綱渡りよりも難しい、と。つまり愛とは修練の末に身につくもの、なのです。最後に園子、渉以外の仲間たちについてです。まどか、冬美、慎司、優介。茅乃。みんないいやつです。お互い半目しあったり、戯れあったり、色々あるのですが、でも本当にいい奴らです、そして園子と渉。やはりシリーズ最終話でのプラネタリウムシーンで、こんなセリフがあります。7つの星は白線を解きました。でもそうしてもお互い離れ離れにならないことを知りました。それから7つの星はお互いを見守りながらいつしかななほしてんとうになりました。誰も悪い人は出てこない。あるのは愛です。そしてまた夢です。でも夢とは、実現すると日常になる、という園子の言葉通り、夢とは結局は手段です。目的は、どうしたら愛に満ちた人になれるか、どうしたら人を見返りなく愛せるようになるか、という、人間が大昔から考え続けている根源的な問いがこの美しい映像と美しい音楽と、そして素晴らしい俳優たちによって、私たちはその悩みを自分のものとして心の奥底に蓄え、糧にすることができる、そして高校最後の半年間は、まるで花火のような輝きを持って、刹那の、すごく美しく切ない輝きを持って、 その記憶は その後の人生のいつも帰れる港のような永遠になるのです。ドラマ白線流しについて、私なりの考察を語らせていただきました。いかがだったでしょうか、この白線流し、何度も繰り返しますが、愛の物語です。愛には本当にたくさんの種類があります。友情も愛だし、もちろん恋愛もそう。先生から生徒への、次世代への愛、親子の愛、母性の愛。このドラマはそうした多くの愛の、その根源を支えているものを習得していく、そう、無償の愛を自身の胸に刻んでいく冒険の物語。この7つの星たちは、これからも私たちの心の中で永遠に輝き続けてくれることでしょう。