西ベンガルの映画, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=4095597 / CC BY SA 3.0

#ベンガル語映画
西ベンガルの映画(にしベンガルのえいが、Cinema of West Bengal)は、インドの映画のうちベンガル語で製作された映画であり、西ベンガル州コルカタ・トリガンジに拠点を置く映画産業を指す。
トリガンジとハリウッドを掛け合わせた「トリウッド(Tollywood)」の通称で知られ、1932年にはこの通称が使われていた。
かつて西ベンガル映画はインド映画の中心的存在であり、歴史的にも重要な映画産業だった。
同映画産業はインド映画産業の中で最も芸術性・批評性の高い芸術映画(パラレル映画)を数多く製作しており、パラレル映画の製作者は国内のナショナル・フィルム・アワードや国外の著名な映画祭で高い評価を得ている。
しかし、20世紀後半に入ると商業映画を主体とするボリウッドや南インド映画の台頭により勢いを失い、産業規模は縮小していった。
プラヤグ・フィルムシティ 西ベンガル映画の通称「トリウッド(Tollywood)」はハリウッドを模して名付けられた通称であり、インドのトーキー映画製作に参加したアメリカ人撮影監督ウィルフォード・E・デミングが名付けた。
彼は1932年の新聞記事で「アメリカ合衆国におけるハリウッドと同様、トリガンジがインド映画の中心地だった」ことから、トリガンジとハリウッドを掛け合わせて「トリウッド」と命名したと語っている。
同年3月の新聞記事によると、デミングは「ハリガンジ(Hollygunge)」という通称も候補に考えていたが、ベンガル語で「トリー(Tolly)」は固有名詞、「ガンジ(Gunge)」が地域を意味する単語だと知り却下したと語っており、最終的に韻を踏んだ「トリー」と「ハリー」から「トリウッド」の通称が生まれたという。
この通称はザ・ステイツマンの記事で紹介されたことをきっかけに広まり、他の映画産業が「ハリウッド」を掛け合わせて通称を命名する流れを生み出した。
インドでもヒンディー語映画が西ベンガル映画を追い抜きインド映画の最大産業になったころに、拠点であるボンベイとハリウッドを掛け合わせて「ボリウッド(Bollywood)」と名乗るようになった。
最初のベンガル語長編トーキー映画『Dena paona』 西ベンガル映画の歴史は、1920年代にカルカッタで最初の「バイオスコープ・ショー」が行われたことで始まった。
ベンガル語映画の基礎はヴィクトリア朝時代の映画界の重鎮だったヒララル・センによって作られた。
彼はロイヤル・バイオスコープ・カンパニーを設立し、スター・シアター、ミネルヴァ・シアターなどの劇場で上演する舞台演劇を数多く手掛けた。
1917年に彼が死去した後、1918年にディレンドラナート・ガングリーがベンガル人が所有する最初の映画製作会社インド・ブリティッシュ・フィルムカンパニーを設立し、1919年にはマダン・シアターが最初のベンガル語長編映画『Bilwamangal』を製作した。
これはインド初の長編映画『ラジャ・ハリシュチャンドラ』が公開されてから6年後のことだった。
1921年にはインド・ブリティッシュ・フィルムカンパニーが『Bilat Ferat』を製作している。
1930年代にトーキー映画がカルカッタにも流入した。
当初、インド映画は富裕層や知識階級向けにウルドゥー語やペルシア語で製作されており、代表的な製作会社として東インド映画会社が存在した。
1931年4月にマダン・シアターが最初のベンガル語短編トーキー映画『Jamai Shashthi』を製作し、同年12月にはニュー・シアターズが最初のベンガル語長編トーキー映画『Dena Paona』を製作した。
この時期のベンガル語映画で人気を得ていた俳優はプラマテシュ・バルアとデーバキー・ボースであり、2人は映画監督となり新しい映画スタイルを模索した。
西ベンガル映画は他地域のインド映画のようなミュージカル映画の形式とは距離を置き、より芸術性の強い作風に傾倒していった。
サタジット・レイ ムリナル・セン ウッタム・クマール スチトラ・セン 1950年代から1970年代にかけて、西ベンガル映画は黄金時代を迎えた。
1956年に第9回カンヌ国際映画祭でサタジット・レイの『大地のうた』がベスト・ヒューマン・ドキュメント賞を受賞し、これ以降数十年間にわたり西ベンガル映画が国際映画祭で脚光を浴びるようになった。
西ベンガル映画の製作者たちも国際的な地位を確立し、その代表的存在となったサタジット・レイはヨーロッパ・アメリカ州・アジアで大きな成功を収めた。
彼…