【感想・考察】映画『国宝』解説レビュー:殺人的な美しさ…完璧な映画、爆誕【警告後ネタバレあり】
[音楽] はい、ということで今回は映画国報、 こちらの作品感想レビューやっていきたい と思います。この動画前半はネタバレなし 途中からネタバレありという構成になって おります。早速参りましょう。まずは あらすをご紹介します。ヤザの一問に 生まれた主人公の菊王はある日高想に 巻き込まれ目の前で父親を殺されてしまい ます。外孤独の身となった気候は髪型 歌舞伎の名門に引き取られ、当手の息子し と出会います。気候は介と競い合い友情を 育みながら歌舞伎の世界にのめ込んでいく とこんな感じのお話です。こちらの映画 一言で言うと殺人的に美しい映画です。 映画を見てる間あまりにも綺麗すぎて何回 も息が詰まりそうになって何回も泣きまし た。なぜ映画国報はこんなにも美しいのか 。芸道に生きるとはどういうことなのか。 そもそも歌舞伎とはゲとは何なのか。ま、 そういった抽象的なことをこの動画の中で 皆さんと一緒に考えていけたらなと思い ます。なぜ映画国報はこんなにも美しいの か。結論から申し上げますと、歌舞伎の 美しさ、女型の美しさを映画の中で表現し てるからです。その美しさを表現するため に必要不可欠なのが本作の見所1つ目白信 性です。ま、平たく言えば本物感ですね。 ではこの本物感はどこから生まれてくるの か。それは歌舞伎の描き方に妥協が一切 ないからです。聞くほど俊本2人の友情と 葛藤を主軸に据えながらこの映画が180 分かけて描くのは歌舞伎役者の行きざです 。それを妥協なく描き切った。だから本物 感が凄まじいんですよ。例えば映画の冒頭 まだ10代の気候が初めて歌舞伎の楽屋を 訪れる場面があるんですが、ここで炭治郎 の妻さ子が遠取り部屋の神棚に手を合わし てたり、役者が楽屋に入ったことを示す 着頭版気候がこれに触って怒られてたり、 こういったリテールの作り込みからして 凄まじいんですよ。やりする時に工業の ブ事を祈って遠取り部屋の神棚に手を 合わせるとか着頭版を刺すとかこれ歌舞伎 役者さんのドキュメンタリーでよく見る 光景なんですよ。ま、そんでもって歌舞伎 の名門渡辺けさん演じる花井半治郎の奥 さん役に寺島しぶを持ってくる辺りがもう ね分かってるんですよ。この映画歌舞伎に 理解のある人じゃないとここまでできない んですよね。人間国報7代目小え菊コ郎 さんを父に持つ女優寺島しぶさん。もし 自分が男に生まれていたら歌舞伎役者に なりたかったとインタビューでそのように 語ってらっしゃる通り、まあ色々と歌舞伎 に対して思うところはあったはずで、 そんな人をあえてキャスティングする。 そもそもね、この映画小地区じゃなくって 東方が配給してるんですよ。小も東方も いずれも日本を代表する映画会社ですが、 小地区には歌舞伎があるんですよ。 あくまでも手は舞台でその余ゲとして映画 もやってるのが小築で、この映画では山優 という架空の工業会社が設定されてますが 、もうこれは明らかに消をさしてます。で 、そんな映画を東方が作って歴史的な大 ヒットをしていると小築の偉いさん今頃 相当補噛んでると思います。と、ま、本筋 から外れて冒頭からいきなり喋り倒して ますが、もうね、私この映画数日前に見て 心の底から感動したんですよ。 めちゃくちゃ泣いたんですよ。あまりにも 綺麗すぎてなんて綺麗な映画なんやろうと 思って、あのね、個人的な話で恐縮なん ですけど、うちの母親めちゃくちゃ歌舞伎 好きなんですよ。日本武用とかシとかそう いうのめっちゃ好きな人でそんな母に連れ て行かれて昔中村之助さんとバ藤多摩三郎 さんの2人藤士娘を京都の南座で見せて もろたんですけどそん時この世のもんとは 思えん美しさに圧倒されたんですよね。 いやもうね映画国報見て歌舞伎に興味持っ た方是非生で1回ご覧ください。ネットで 調べたら初心者の方には2回席がおすめっ て出てくるんですけど、僕は初めての方に こそ奮発して1回席をお勧めしたいです。 資金距離で目の前で現実離れした綺麗な もんに圧倒される感覚。もうね、あれは1 回席じゃないと味わえないんですよ。映画 国報ご覧なった方皆さん綺麗なって感じ はったと思うんですけど、実際の歌舞伎、 実際の女型ってね、もっと綺麗なんですよ 。もう言葉失うぐらい綺麗なんですよね。 こんな綺麗なもんがこの世にあんのかって 思うぐらい綺麗で綺麗すぎて鳥肌止まらん のですけど、ま、そういう実際に歌舞伎の 舞台を見た時に感じるそれと同じ感動を僕 はこの映画国報で味わったんですよね。 映画館出た後、もう完全に方針状態で一体 今何を見たんやろうって理解するのに かなり時間かかってもうねそれぐらい本当 に圧倒されました。ほんまに素晴らしかっ たですね。と、ま、あんまり感想ばっかり 喋ってても拉チあかんので、そろそろ 真面目に話しますね。歌舞伎の本物感。 白信性を作るリテールの数々。目を打つ ほど鮮やかなフり袖本物にしか見えない 劇場のセット。これね、どっからどう見て も実物の歌舞伎小屋にしか見えないんです けど、東方のスタジオに作ってるんですよ 。セットを。びっくりしますよね。それ からここまでの白信性が出せた理由は やっぱりこれが1番大きいですね。実際に 俳優さんご本人が女方を演じたこと。吉沢 りさんがインタビューでおっしゃってた 通り400年の歴史を誇る伝統芸能歌舞伎 は本来幼い頃から稽古を重ねてそうして ようやく日の木部隊に立つことができるん ですよね。けどそれと同等のものをたった 1年半で退得しなければならないと。 そして吉澤りさんも横浜竜さんもたった1 年半で女方を退得し見事に表現しきった こと。日本を代表する武踏谷口博さんに よる武指導、振り付け指導の元最初は歩き 方センスの置き方から始めたというこのお 2人原作小説を書いた吉田一さんは4代目 中村ガ次郎さんの一問に3年間黒として 参加し、その中村ガ次郎さんが本作には 歌舞伎監州として参加。実際に映画本編で 使われてるのは演目の一部だけですが、 一通り投資で踊れないと前後の流れが 分からへんと。そういう理由から主演俳優 お2人には各円目の振り付けを一通り投資 で覚えてもらったという本格っぷり。 そしてそんな主演俳優2人の真に迫った 歌舞伎を際立たせるのが劇中で2人が 演じるキャラクター菊と俊ボの関係性です 。見所2つ目。友情と葛藤才能に恵まれ ながら苗積を継ぐ資格歌舞伎役者の血筋を 持たない菊を苗積を継ぐのに必要な資格 歌舞伎役者の血を受け継ぎながら義量で 劣る俊助良きコンビでもあり良きライバル でもある2人この2人映画の中で何回か 大きなキロを迎えるんですがその時お互い に本心を打ち明けないんですよね。お互い に抱えてる思いはあるけど、それを面と 向かってなかなか口にはしなくてふとした 瞬間に本心がポロっと出て取り返しのつか ないことになるとなかなか本音で 向き合おうとしないこの2人が歌舞伎を 通して互いの心情に迫っていくこの2人の 関係性がまた胸を打つんですよね。劇中で は互いに競い合うライバルとして描かれる 菊俊。こんなお2人を演じた吉沢りさんと 横浜竜星さんもまた女方の役づりのために 互いを意識していたとインタビューでその ように語っております。パンフレットに 乗ってるインタビューで書かれてたんです けど、横浜竜セさん曰く最初は2人 それぞれ個別に稽古をしてたらしいんです よね。ある程度基本的な稽古をしてから 吉澤さんと一緒に動きを合わせる形で稽古 をするようになったと。で、そうやって 2人並んで稽古をしてみたら、吉沢さんの 女方に色っぽさを感じたと。横浜さんは そうおっしゃってて、じゃあ自分が演じる కొ助の女方はカレンサで行こうとその ように決めたそうです。いや、これね、 実際映画ご覧いただいたら分かるんです けど、2人藤士娘とか2人道場寺やってる 時、横浜竜セさん演じるしの方が表情が 豊かなんですよ。内元とか目尻とかそう いう細かいところで表情がすごく豊かなん ですよね。で、一方吉澤さん演じる気候は どうかと言いますと、もうつやかなんです よね。これがね。思わずぞ生めかしいこと を精園と言いますが、吉沢さん演じる気候 の女方はまさに声援なんですよ。映画見 終わってノートで感想ザッピングしてたら たまたま目に入った感想でこんなの書かれ ててめちゃくちゃうついたんですけど 流し目が上気をした色気を放ってるとま そんな風に書かれてたんですけどまさに これで目の流し方手付き袖さきがもう びっくりするぐらいあやかなんですよね。 艶があると申しますか、役作りの時点から ライバルであり、良きコンビでもあった 2人、実際の歌舞伎でもこういう名コンビ の例は実在してて、例えば70年代に一斉 を封備した10代目市川エ蔵今のダ十郎 さんのお父さんですね。5代目バ藤 玉三ブ郎さんのエビ玉コンビ片岡高尾さん 。今の15代目片岡2門さんとバ藤 玉三ブ郎さんの高玉コンビ。兄弟であり ライバルでもあった例としては2代目本 白尾さんと亡くなった2代目の中村吉え門 さん。この関係が有名です。本物感 凄まじい歌舞伎の作り込みと主演俳優2人 が見せる悪の演技。この2つが歌舞伎の 舞台を通して融合していくと。そして見所 3つ目歌舞伎の翻訳です。この映画国報が 確信的なのは単に歌舞伎を映像として記録 するだけではなく実際の歌舞伎を見た時に 味わうあの感情体験そのものを見事なまで に映画言語に翻訳した点にあります。その 具体的な手法を見ていきましょう。 クロースアップ、音響、カメラポジション 、主にこの3つです。飛車体の顔だけを 見せるいわゆるドアップの映像のことを 撮影用語でクローズアップと言います。 この映画主演2人が演じる女方の流し目や 表情、手付き、息遣いなど実際の歌舞伎で は捉えきれないぐらい生々しいディテール をこのクロースアップを駆使して匿名に 描いていくんですよ。で、この歌舞伎と クロースアップというのは実はゆかりが あって映画の有名な編集理論、 モンタージュ理論を築づいたソレンの映画 監督セルゲイエイゼンシュテインが歌舞伎 の見えと映画のクローズアップ。この両者 の類事点を指摘してるんですよね。歌舞伎 の未えは停止することで劇場の観客の注意 を1箇所に引きつけ、カメラを使わずに 役者の表情や感情を凝縮する演出です。で 、この演出的な機能が映画における クローズアップと同じだとエ戦シティイン はそのように指摘してるんですよ。そして 映画広告法ではそんなエ戦シテインの指摘 が正しかったことを歌舞伎の演目を クロースアップで切り取ることで最期的に 証明してるんですよね。それから クロースアップで言うとこの映画手の アップがめちゃくちゃ多いんですよ。まだ 映画ご覧になってない方、もう1度ご覧に なる予定の方、是非今度は手に注目して ご覧なってみてください。なぜこれほど手 のアップが多いのか。それは手付き1つに 美しさが現れるからです。女性がやかな 仕草表情をすることをシナを作ると言い ますが、女型の表現が持つ美しさにはこの シナを作ることによる美しさも含まれて ます。ま、細かいことを言えばそれだけが 全てでは決してないんですが、ま、それは さておき重さにして数十kmもある振り袖 を着て流れるように踊ること、細やかな 動きをすること、袖さき、目の流し方、 表情、曲線的な体の動き、重心の移動、 そして手つき、そういった動きの1つ1つ が積み重なって相対的に立ち現れる美しさ 。それが女方の美しさなんですよ。手には 表情があります。歌舞伎はなかなか日常的 ではないかもしれませんが、例えば身近な 例で言うとバーテンダーさんや美容師さん の手なんかどうでしょうか?皆さん今度 美容室やバーに行く時職人さんの手に注目 してみてください。ウイスキーのボトルを 取ってグラスに進ぐハサミを持って神を 切る。一見誰がやっても同じように思い ますが、やっぱり同じ書を一般人がするの と専門職の人がするのでは手の表情が全く 違います。ま、手の表情と言うとなんだか 抽象的ですが、分かりやすくパラフレーズ すれば相手に与える印象が違うんですよね 、全然。ただ手を伸ばしてボトルを取るの と小指から順番に動かして曲線的な動きを つけてボトルを取るのではやっぱり相手に 与える印象が違ってきます。ボトルの持ち 方1つにしても手のひをべったりつけて ボトルを握るのと手の腹だけでボトルを 掴むのではやっぱり与える印象が違います し、ボトルの上の方飲み口の部分を持てば 下品に見えますよね。それからボトルの下 を持てば安定して見えます。ま、そういっ た書作に加えて一連の動作の中で止め、 跳ね、払いみたいに動きの中に換球を つけるとカウンター越しに座ったお客さん に与える印象はさらに変わってきます。 著佐と動作。その主役にあるのが手なん ですよ。ま、抽象的かつ感覚的な話ですが 、要するに手には表情があるんですよね。 で、本作国報では女型の手を必要に クロースアップで見せることでそんな手の 表情を印象付けてます。例えば劇中1回目 の2人藤士娘の途中手だけを移した ショットが一瞬挿入されたり気候が集命 する場面では気候の手が短時間の間に何回 もクローズアップで映し出されます。 お辞儀をする時綺麗に揃えた手とセンスを 置く時の手、集名する場面。この短い シーンの中で2回も接車されるんですよ。 それから人間国報小野川万ギが人を手招き する時の手、その手だけをクローズアップ で見せる。しかも劇中で2回もそれを 繰り返す。人を呼ぶために手招きする。 そんな日常動作の中にすら日々の鍛錬で 培った美しさが宿っている日常動作の レベルでそのレベルで鍛錬を積んだ結物、 それが人間国報斧川満ギだと映像で伝え てるんですよね。それから2つ目の大事な 演出が音響効果です。女型にカメラを 近づけることで役者の内面に肉白する効果 を与えたクローズアップ。その効果を さらに高めるのが音なんですよ。この映画 歌舞伎の演目が劇中で演じられる時余計な 音が一切ありません。衣装が擦すれる 気ずれの音、息遣い、足音、歌舞伎役者の 声。余計な音楽が一切ないからこそいった 舞台上の生の音、細かい音が際立って強調 される。これがクローズアップと相まって とんでもない生々しさを生み出してました 。そして演出要素3つ目。カメラ ポジション。歌舞伎の舞台をカメラで撮影 するといえばシネマ歌舞伎が思い浮かび ますが映画国報とシネマ歌舞伎が全く 異なるのはカメラポジションカメラを置く その位置にあります。シネマ歌舞伎では カメラの位置は基本的に正面から フィックスで固定されてます。一方、映画 国報では舞台の上から客席の方を向いて 取ったり、舞台の横から取ったり、時に 劇場全体を俯瞰したりとカメラの位置が 非常に多彩です。それからすっぽから 上がってきた時の役者の目線とか大道具や 小道具といったスタッフがいる舞台ぐ花道 の上から見た景色、つまり役者の目線で 撮った映像がすごく多いですと。ま、 こんな風にして様々な角度から撮影する ことでこの映画は歌舞伎の舞台を劇映画の 映像言語に翻訳していきます。そ先真獣の お初の足を特米の視点から見た主観 ショット。あんな映像、あんな視点絶対 映画でしかできない視点ですからね。あの 位置にカメラを置くという発想自体がもう 天才なんですよとこうして見てきたように この映画すごく地密に計算し尽くされて 作られてます。映像に無駄がないんですよ 。例えば冒頭子供時代の気候の背中にお 城いを塗るショット。お城いを塗る刷けが 下から上に動くとその動きに合わせて ショットが切り替わります。次のショット では雪が降りツもった両亭の庭が移り、 カメラは下から上へゆっくりとアップして いく。分かっていただけますかね?これ また抽象的な話で恐縮なんですけど、刷の 動きとカメラの動きが連動して、お白いの 白色と雪下の白がシームレスに資格的に 繋がってるんですよ。で、次のショットで は松が廊下を走っていってヤザの親分 ゴンゴロを呼びに行く様子がワンショット で撮影されてます。廊下を移動して ゴンゴロの隣にマツが座ってもカットを 切らずマツのセリフだけを画面外から聞か せるとこんな風に取り方がうまい映画って 必要以上にカットを切らないショット数を 増やさないんですよね。溝口健二もなる瀬 セミきおも日本映画の巨匠たちは必要以上 にカットを切りませんでした。現代だと 浜口竜介さんや黒沢清監督なんかがそう ですよね。ま、ちなみに冒頭気候の初登場 シーンの演目が赤のになってるのは原作者 の吉田集一さんが溝口健二の映画残物を見 て勘明を受けたからだそうですと、ま、話 が恐れましたが優れた映画撮影は余計な カットを切りません。なぜなら全てが あらかじめ計算されてるからです。カメラ を回す前にそこまで考えて作り込まれてる からです。なんとなく一元さんお断り感の ある式の高い歌舞伎を激画として見事な までに翻訳したこと。余計な駐射を一切 つけず映像の力だけで歌舞伎の演目を見せ たこと、表現したこと同じ演目を何回も 繰り返すことで歌舞伎に明るくない初心者 でも感覚的に分かるように アクセシビリティの問題を解決したこと。 2人藤士娘の物語が文脈を知らなくても 俳優の表情にクローズアップすることで その内面から出てくる感情を捉えそれを 観客に肌感覚として理解させたこと。これ が映画国報の凄まじさ。緻密に計算さ れ尽くした結果なんですよ。そうやって 地密に計算した作り方でこの映画が描くの は歌舞伎の美しさです。では、その美しさ とは何なのかという話になるわけなんです が、それを語るためには作品の中身に触れ ないといけないので、この辺りでネタバレ 解禁したいと思います。まだ映画ご覧なっ てない方、あえてきつい言い方しますけど 、100%人生損してます。配信来てから でも全然構いません。是非ご覧ください。 ということで、ここから先ネタバレして まいります。まだ映画本編ご覧なってない 方ご注意ください。それでは参りましょう 。まずはラストシーン。以降は何を見てい たのか。あれは人間国報花半治郎の美の 厳選。花井半治郎気候にしかできない表現 を生み出す美の厳選なんですよね。美の 厳選つまり気候の中にある美の理想像です 。美の完成系。それがあのまゆい光だった んですよ。皆さんちょっと考えてみて ください。受け手が美しいと感じる基準は 人それぞれ異なります。こんな条件におい て1人でも多くの人が美しいと感じる表現 をするためには一体どうすればいいと思い ますか?美しいものを表現するためには 円者当人の中でこれが美しいという判断 基準になるものつまりBが必要になってき ます。我々はイメージの中で1度経験した ことにしか現実を近づけない。従って事実 とは常に2度目の現実の別であると。自身 であり作家である寺山修二は人間が現実を 理解する際すにイメージとして1度経験し たことしか扱えないとそのように述べまし た。ま、要するに何かを表現するためには まずそれをイメージする必要があると。 また哲学者のプラトンはイデア論という 考え方を解きました。イデアとは僕たちが 感覚で捉えている物質的な世界とは別の 理性によってのみ捉えることのできる永遠 不遍の世界イデア界に存在する完成系です 。ま、例えば現実には様々な形、色、味を したりんごがありますよね。そういった 個々の特徴を持つりんごを僕たちはりんご として認識することができます。これは僕 たちの理性がりんごとはこうあるべきだと いうりんごの完璧な姿。つまりりんゴの 理想像イデアを捉えているからだと プラトンはそのように考えたんですよね。 現実に存在する個別のりんごとはその理想 の完成系イデアの模法品に過ぎないと。で 、気候が見ていた景色は気候にとっての美 のイデアなんですよ。永遠普遍の美の本質 。すなわちイデア。気候が舞台で見せる 表現とはそのイデアから生じイデアを反復 し模法したものに過ぎないと気候が日々 稽古に励み終練を積むのはその理想とする 美しさに少しでも近づくためです。 ちょっと冷静になって考えてみましょう。 令和7年マジまじが日常的に使われるこの 現代で議代を完全に聞き取りその意味内容 を理解できるのは限られた少数派です。 それでも人々は歌舞伎に魅了され、その 歌舞伎を白信の出来で描いたこの映画国報 に多くの人が魅了されたと。それって肌 感覚のレベルで歌舞伎の美しさが映画を見 た観客に伝わってるからなんですよ。現代 の歌舞伎は美しさを追求する芸術形態と 言っても過言ではありません。1603年 徳川幕府と共に生まれた歌舞伎。元々出雲 の奥にという1人の女性が始めた ストリートダンスから出発しました。そこ から400年の歴史を重ね、少しずつ表現 を洗練させていき、歌舞伎は様式日を獲得 するに至ります。書作物語演出衣装音楽 それらをいかに美しく表現できるか。その 美しさを歌舞伎は400年の中で洗練させ てきたんですよね。歌舞伎の演技は リアリズムではありません。補調され様式 化された方の連続であり、その1つ1つに 意味が込められてます。歌舞伎の大名詞、 三重や熊取などこういった様式化された 表現は登場人物の感情や性格を市聴格的に 凝縮し、観客に訴えるための演出方法です 。歌舞伎って物語の展開だけではなく、 一瞬一瞬の絵としての美しさを非常に重視 するんですよね。役者の感情が最好調に 達した瞬間動きを止めてポーズを決める ことでその感情を時間の中で静止させ観客 の目に心に焼きつける。それが見えであり 歌舞伎の様子日です。で、この様子を いかにうまくいかに美しくできるかに役者 の義量が現れてきます。そして芸能とは 呼んで字のごとく芸術と技能の融合を指し てます。異能なくして芸術は生まれず、 観客に芸を見せるという目的して技術は 意味をなしん。つまり役者と観客の両方が 揃わないと舞台は誠一しないんですよね。 先ほど歌舞伎とは美しさを追求する芸術 形態だと申し上げましたが、歌舞伎が持っ ている美しさとは役者と観客双方の挟から 立ち上がってくるもの。役者と観客両方 揃って初めて舞台が成立し、そこに美しさ が生まれてくるわけなんですよ。映画の中 で気候が旅館や疲労園で藤娘をやってる 場面がありましたよね。確かに美しいけど なんか違う。多くの人があの場面で感じる 違和感はあの場に嫌合わせた観客が美容を 求めてないから役者と観客の関係性が 歌舞伎小屋のそれとは根本的に異なるから なんですよ。が取り憑かれたように見てい たあのまゆい光は人間国報花半治郎の表現 を生み出す厳選役者の持っている美意識 そのものでありそんな役者が抱く完成され た美のイメージと観客自身が抱く美意識 つまり美しいと感じる感性その両者の狭 から立ち上がってくるのが歌舞伎の舞台の 美しさなんですよ。映画のクライマックス 人間国になった父と再開した綾乃が言う セリフ舞台の花半治郎を見るたびになんや お正月迎えたようなええこと起こりそうな 何もかも忘れてこっちをいでって誘われる ような見たこともないとこ連れてかれる ようなそんな気持ちになって気がついたら 拍手してたあのセリフはね実際に生の 歌舞伎を見てその美しさに圧倒された経験 のある人じゃないと書けないんですよあの セリフ役者と観客そして舞台好の3つの間 で起きる往復運動。その3者の挟まで 立ち上がってくる美しさ、それに圧倒さ れる経験がないとあのセリフは絶対書け ないですね。役者自身が抱く美のイデア。 それを参照することで役者は美しい表現を 生み出し、観客は自分自身の感性でその 美しさを受け取る。つまり舞台とは役者と 観客の間で起きる往復運動なんですよね。 そして舞台に立っている役者が役者本人で はなく役柄からそのものになり切った存在 である以上観客と舞隊上のキャラクター 双方の決戦となるのが役者であって舞隊上 で劇が演じられる時役者の肉体は観客に とっても役者本人にとってもその肉体って 表現を生み出すためのメディウム職媒に なってるんですよ。近代劇の観客にとって 俳優は代理の人間である。俳優は観客に 変わってもう1つの現実を具限し観客の死 を死ぬのであると。そうといたのは寺山 修二ですが、舞隊上における役者の肉体が 表現を生み出すためのメディウムだから こそ役者が舞台に立って演じている時、 特にラストシーン人間国になった花江 半次郎が詐欺娘を演じる時そこに観客の姿 はないんですよね。防ガの境地という言葉 がありますがあの時の気候はまさにこれな んですよ。防画メッシそうやって完璧な 表現を追い求めヤと完全に同化し キャラクターと観客の決点になり切った 瞬間、その境地に至ったからこそ見える 景色があった。そしてその景色は彼自身の 原風系美の根源イデアだったと。ちょっと 思い出してみてください。気候はある時期 から自分でも気づかないうちに美に 取り憑かれてたんですよ。炭治郎と俊本が 連事書やっているのを舞台袖から見た時 気候は美しいと感じたはずなんですよね。 俊本と2人で初めて2人道場所やり切った 初演の後気候が舞台袖で呆然としてるのは あの瞬間また何かに取り憑かれたからなん ですよ。お稲さんにお参りして日本1の 歌舞伎役者にしてください。他のものは何 もいりまへん。備なしてお願いする のめり込み方が尋常じゃないですよね。 そこまでしないと見えない景色がある。 そういう見方もできますが、それだと スポコン漫画で描かれてるのと同じこと です。そうじゃないんですよ。これは 歌舞伎が主題の映画ですからね。取り憑か れてるんですよ。気候は自分が抱く美意識 に美のイメージにすっかり取り憑かれてる 。では気候が抱く美の厳選美の原風景は どこから生まれたのか。それは父親の首と 人間国報小川満ギの詐欺娘。この2つが いびな形で結びついた瞬間です。斧川満ギ の詐欺を見た時、気候はこんなん化けもん や言うてました。核の違いに恐れた。ま、 そういう風に捉えることもできますが、で はなぜこの場面であの雪のイメージが挿入 されるのか。映画の中で何回も繰り返さ れる雪のイメージ。あれは気候が父の死に 感じていた美しさと小野川万ギの美しさ。 この2つがいびな形で結びついた瞬間だっ たんですよ。だから雪に火が散ってそれが 逆再生される演出になってるんですよね。 幼かった気候は気づいてなかっただけで父 が雪の上に倒れた時そこに吐かない美しさ を感じてたはずなんですよ。桜の花びが 散っていく姿にはなさを感じ、そこに美を 見い出すように命を散らした父の死候は そこに美しさを見い出したんですよね。 ゴンゴロの死は極道という豪気な人生を 生き抜いた1人の男の行きざでもあって、 それがはなくなく散っていく瞬間に絵も 言われぬ美しさを感じてしまったと。 ちょっと思い出してみてください。銃弾に 打たれたゴンゴ郎が倒れていく様子が 鏡越しに反射した映像。あそこで映像は スローモーションになってゴンゴ郎が倒れ た後も数秒間気候の表情をカメラは捉え 続けてました。そして少しの間を置いて からタイトルバックが始まるとなぜあの数 秒間カメラは気候の表情を捉えていたのか なぜ気候は雪を見つめているのかあの瞬間 気候の中で強烈なイメージが湧いたんです よね。ただあの当時は歌舞伎も知らずまだ 押さなかったがゆえにそれが美しさだった と気づかなかった。で、あの時に感じてい た感覚が美しさだったということに、成長 した10代の気候は万ギクさんの舞台を見 てる時にそれに気づくんですよ。そうやっ て2つの美しさが結びつき、それが生涯 気候にとっての美のイデア、美の厳選と なっていくと、あの瞬間気候は自分が抱い てる美のイメージに取り憑かれたんですよ ね。で、この映画には美に取り憑かれた 人物がもう1人いてました。これが人間 国報小川万ギです。引退した万ギさんは 簡易旅館で気候と再開した時、その行ざが 伺えるセリフを言ってました。ここには 美しいもんが1つもないだろう。なんだか ほっとすんのよ。もういいんだよって やっと誰かに言ってもらったみたいでさっ て。あのセリフあるじゃないですか。人生 かけて美を追い求め表現を磨き美に挨殺さ れた人生。それは人間国になった気候が 今後辿どっていく道乗りでもあります。 それから聞こうと初めてあった時、満ギク さんが言うセリフ、役者になるんやったら 綺麗な顔なんか邪魔や。その顔に自分が 食われるぞとそういうセリフありましたよ ね。あのセリフは自分の表現がルックスに よるものなのか、それとも自分自身の義量 によるものなのか、それが将来分からなく なってくるぞと。そんな風に気候に警告し てるんですよ。人間国報の息に達してる からこそ日常レベルで美しさを突き詰めて 考えてるからこそ出てくる言葉ですけど、 当時の気候はその息にはほど遠く何を言っ てるのか分からないとそれからこの初対面 の場面で特に象徴的なのが利ですよね。 歌舞伎の世界は独特の社会構造、専門用語 、多くの不分率から梨しの縁と書いて リエンと呼ばれます。属性から確実された 正域性を意味する言葉。それが理です。 厳格な盾社会であり、外界から確実された 閉鎖性を持つという点では相撲屋なんかも これに近いですよね。それから映画の中で 言えばヤザもそうですし、舞子さんの世界 も 歌舞伎と似ています。で、ここで菊と初 対面した万ギクさんは菊と名も合わせない んですよ。最初鏡の反射でちらっと見る だけで炭治郎と瞬本しか相手にしない。 そこに気候がいないかのように振る舞い 続ける。瞬ボにはお菓子を進めるけど 炭治郎が気候を紹介しても彼の方には目を 向けないんですよ。ちなみに炭治郎としボ が初めて対面した時もやっぱりしボは手鏡 の反射で聞くを見るんですよね。直接見 ないんですよ。この映画における手鏡鏡と はそういった歌舞伎の利閉鎖性を資格的に 象徴してると思われます。そして万ギク さんが気候の顔をマじまじと見つめてあの セリフを言うのは炭治郎と俊本が楽屋から 出ていった後、つまり他人の目がなくなっ た時なんですよ。直接関わってるのを見 られたくないとおそらくそういう意識が 満ギさんには働いてるんですよね。それ から映画の終盤俊房が歌舞伎会に戻って くるとすぐに共演し俊ボに自ら稽古をつけ てあげると。なぜそこまでして気候と距離 を取るのか。万ギさんは気候の才能は認め てますが、あくまで部害者と認識してるん ですよね。準決主義と申しますが、脈を おじるという意味ではすごく保守的な態度 であると言えます。で、そんな万ギ句さん が瞬望に稽古をつけながら言うセリフ。 あなた歌舞伎が憎いんでしょ?それでも やるの?あのセリフは関節的に気候に向け て言ってるんですよね。この場面もう1回 見直してみてください。万ギクさんは気候 がそこにおることをちらっと見て確認した 後でこのセリフを言ってるんですよ。 もちろん表面的には瞬望に向けて言ってる わけなんですが、その言葉に含みを持たせ て間接的に気候に向けても言ってるんです よ。なぜ直接言わないのか、間接的に言う のか。それは満ギさんはやっぱり準決では ない気候と1対1で話したくない。1対1 で気候にアドバイスを送りたくないからな んですよ。この部害者お断り感人間国報 小川万ギというキャラクターはまさに 歌舞伎の利嫌を対現したキャラクターでも あるわけなんですよね。で、ここで関節的 に気候に向けて言ったセリフが終盤簡易 旅館の場面で回収されてくるわけですよね 。久しぶりに再開した気候に向けて万ギ さんはあなたどこにいたんですかって言っ てましたよね。あのセリフのシーンは私が あの時遠回しに頑張れよ、踏ん張れよって 言ったのにあなたどうして逃げたのよと そう言ってるんですよ。そう満ギさんは き候に向けて間接的にアドバイスして応援 メッセージを送ってたんですよね。じゃあ 直接言うたらええやんてやっぱり思います けどそれができないんですよ。万ギ句さん にとって気候はあくまでも雑だからそれは プライドが許さないんですよ。そんな 万ギクさんが最後の最後で気候のことを 歌舞伎会に戻してあげたのは引退した万木 さんなりの最後の情けあったんでしょうね 。そしてこの簡易旅館の場面で年気の入っ た戦争を渡されて気候が踊り始めると マンキクさんの目が変わるんですよね。 引退しても決して猛力してないマンキク さんの骨みに刻まれた神美が菊王を ジャッジするんですよ。人間国法補てや ないで俊ボがそう言うてましたけどほんま にそうやなと感動した名心でした。では 菊王も万ギクさんも歌舞伎役者が励む芸堂 とは一体何なんでしょうか? クライマックスの場面満身総位の瞬本が お発を演じた先真獣足の痛みを押し殺し 死に者狂ぐいでお発を演じる俊本の姿を 舞台袖から見てたのは言いました。あんな 生き方真似できねえな。一般人には真似 できない生き方1つの目的のために己の 人生全てを捧げること研ぎすまされた刃の ように己の人生を1つの目的に沿って終練 させること。その生き方こそが芸動なん ですよ。人生かけて追い求める目的。それ は女方としての究極の表現であり、その ために日々稽古を積む。それは稽古を 行きざに組み込むこと。稽古を日常レベル に落とし込むことです。芸動の銅とは元々 体型化を意味する言葉でした。作動やなど 芸術と技能つまり芸能には未知という感じ がついてますが、元々はそういう理由が あります。やがて芸能は大体継承されて いくに従って技術は体型化されていき、 未知という感じに込められた本来の意味は 達成されてしまいました。そこで未知と いう感じには新たな意味が付け加えられ ました。それが生き方なんですよね。元々 は指定関係をたっ飛ぶ前収の影響と言われ てますが、ま、その経緯はどうあれ、この 未という感じには生き方という意味が宝さ れるに至ります。生き方を芸能と合致さ せること、それはつまり日常レベルで稽古 を積み終練すること、それが芸動という わけですね。では女方とは何なのか?この セリフ確か本編では使われてなかったと 記憶してるんですが、脚本では炭治郎の セリフでこんなセリフが書かれてあります 。あんな女方は女とちゃうで女であって女 でない幻みたいなもんや。そこ忘れたあ かんでこんなセリフが書かれてるんですよ 。そう。これがね本質を意味じくも 言い当ててるんですよ。女方とは現実の 女性をリアルに模法することではありませ ん。1603年正確には女性が舞台に 上がるのを禁じられた1653年から 400年弱にわって磨き上げられてきた 様子を通して現実を超えた美しさ、理想化 された女性の美しさを舞台上で表現する こと。それが女方の本質なんですよ。動き 、姿勢、発生、衣装、カラ、お城い、そう いった細部を積み重ねて現実を超えた女性 の美しさを表現すること。それが女型です 。一般的に男性が女性に対して美しいと いう時、その表現には少なからず セクシズム的な要素が隠れてます。ま、 そういったセクシズムをはんだ還元では なく、丸山王の絵画を目の前にした時に 感じるような匂い立つ美しさ、単美的な 女性の美しさ、有限たる美しさ、そういっ た種類の美しさを舞台空間上で作り上げる こと。それが女方という存在です。 そもそも舞台に立つとはどういうことなん でしょうか?なぜ俊ボは足の痛みを 押し殺してまでお発を演じ切ったのか? 溶結した炭治郎はなぜなんでやマクあげて やと最後まであんな風に悔しがっていたの か炭治郎の弾薬を務めることになった気候 はなぜ舞台裏で震えていたのかみんなが みんななぜそこまでするのかというレベル で歌舞伎に全てを捧げてました。これは 舞台に立つことが彼らにとって特権であり 本当に生きている瞬間だからです。日の木 部隊に建てるのは選ばれた人間だけです。 歌舞伎役者さんはと下に瞬別されます。と は劇場の看板に名前が乗る1人前の役者の こと。那下とは早くしか与えられない役者 のことです。そしてそのいずれにも属さ ない人はあの日の木部隊に上がることすら 許されないと。つまり舞台に立って役を 演じるのはある種の特権階級なんですよね 。そして日々稽古を重ねその生き方を稽古 と同化させる役者にとって舞台に立って いる瞬間こそ本当に生きている瞬間と言え ます。日常レベルで稽古を積むのも体の コンディションを整えるのも全ては舞台の ため舞台から降りている間は全て舞台に 足すための準備期間に過ぎません。与え られた役を演じ、役そのものとして舞隊上 で生きること。そうすることで観客と一体 化する行為。それが舞台に立つことであり 、それは選ばれた一部の人間だけが持つ 特権であり義務でもあります。では俊本は そんな義務特権から逃げたのかと言うと そうではありません。炭治郎の大学として 気候がお初を演じた真獣。あの舞台を見た 時、お発が特米に思いを打ち明ける場面。 涙を浮かべながら工場を述べる気候のその 表現を見て瞬本はあの瞬間、あ、これ叶わ んわと思ったんですよ。自分では手が届か ないということをあの時はっきり自覚した んですよね。親友がいつの間にかすごく 遠いところに行ってしまったこと。今の 自分はどういてもそこに到達できないこと 。こう言ったことをあの瞬間俊本はっきり 悟ったんですよ。逃げるんちゃう?本魔の 役者になりたい。あのセリフに込められた 真意とは瞬本が再出発する決意表明であり 決縁に頼らず芸の義量だけで勝負できる 役者になりたい。そのために丹の名前を 一旦捨てる必要があるとその腹をくくった 瞬間だったんですよ。ここで春江が瞬本に ついていくのは春江もまたいつの頃からか 気候の存在をすごく遠くに感じていたから 、つまり俊ボと同じ心境だったからです。 この場面で春江と俊ボが劇場出ていく ショットと新住の映像がクロス カッティングされるっていうね。もうこの 場面ね、映画館で見ててほんまに天才やな と思いました。この崎真珠映画の終盤で 再び反復されるわけですが、これ原作だと 最後の演目住田川なんですよね。子供を なくした女性が狂ってしまう。ま、そう いう悲しいお話なんですが、それをあえて 映画では先を反復すると、しかも死を覚悟 したお初の心情と同じく死を覚悟した両足 を切断する腹をくった瞬ボの決意を オーバーラップさせてくると。劇中で2回 目の先住のラスト。特米がお初の首に担当 を向ける瞬間、あの瞬間気候は瞬望の役者 人生に引動を渡すんですよ。目と映画2つ の物語がオーバーラップする。そしてそれ を映像表現だけで伝えるともうねマジで 天才としか言いようがないですね。そして この2回目の真獣では瞬望が涙を浮かべて おを演じてるんですよ。そう自分と気候の 差を歴然前と感じた気候が大役としてお 演じた時涙を浮かべてたのを見てこれ叶わ んわって思った。あれと同じことを最後に 俊本がやってるんですよ。気候と俊お互い に内者ねをしていた2人。気候は血を瞬ボ は才能を求めましたけど俊本はその血に よって父と同じ糖尿病を患らうことになり ました。血筋を求めた気候はタバ屋を追放 され再び歌舞伎会に戻り俊本という正当な 光継者と再びコンビを組むことで見事復活 を果たしていく。そして瞬本の死によって 光継者がなくなったことでようやく血を 得るとお互いに内者ねをするすれ違いなん とも因果な話ですよね。そもそも気候の 才能って何やったんでしょうか?瞬望が 干した才能って何やったんでしょうか? さち子は気候を表してこう言ってました。 が水を吸い込むようやわ。なんやそこがの て恐ろしいわ。努力を努力と思わずに こなすことのできるのめり込む性質寝てる 間もやりたいぐらいやはそこまで のめり込める性質それを人は才能と呼び ます。元々女方としての素用があった上で 努力を努力とも思わずに続けられること それこそが気候の才能でありico次郎は そんな気候の才能にかけたわけですね。 なぜ炭治郎は菊を選んだのか。自分の大薬 として菊を指名した時、おそらく炭治郎は 俊本へのいい刺激になるとそういう思いも 少なからず持っていたはずです。けど最終 的には炭治郎の苗石すら器に譲ってしまう 。苗石を譲った時は半ば諦めの気持ちも あったんでしょう。した後亡くなる直前に 瞬本の名前を言うのはあれが阪次郎の偽ら ざる本心だったからです。1度ならず2度 も気候の才能にかけることにした。1度目 弾薬を立てる時は純粋な掛けとして、 そして2回目苗積を譲る時はヤに病まれず 自分に残された時間が少ないからけど瞬本 が帰ってこないから消去法的にもう1回 気候にかけることにしたと。ビッこを集命 する直前炭治郎がえらな様子で気候に言う 言葉。あんたはゲで勝負するんや。ほんま のゲは刀や鉄砲よりも強いねんと。あの 言葉は炭治郎なきアと苗石をついだ気候が これからたどるであろう辛い道のりを予見 して言った言葉だったんですよね。見えて たんですよあの時炭治郎には花井半治郎と いう苗石を部屋語の気候に譲ることでこの 先彼がどれだけ辛い思いをするか気候と 瞬本の間に一生消えない過を残すことに なるか全てはっきり見えてたんですよ。 分かってたんですよ。それでも最後に人花 咲せようとしたico次郎が語るあの言葉 は彼なりの罪悪感から出た言葉だと僕は 思います。最後に映画のタイトルについて 見ていきましょう。そもそも人間国報とは 何なのか?人が国の宝になるとはどういう ことか。人間国報正式名称は重要無型文化 剤保持者です。専門家の審議を得て芸能や 工芸技術を高度に対現対得していると認め た人物を文化庁が認定します。その人が 持つ身体性と技術そのものが保護すべき 日本の文化祭であるとそのように国が認め たことを意味するわけですね。この映画の 主人公気候のモデルは機代の女方5代目 バドサブ郎さんです。歌舞伎とは無縁の 両亭の息子として生まれ小児麻痺の リハビリとして習い始めた日本武から 歌舞伎の世界へ足を踏み入れ第14代森田 神也の部屋になり後に用姿として迎えられ 5代目バド玉多摩サブ郎を集命70年代 若手の遊望役者と組んだ黄金コンビで絶大 な人気を誇り2012年人間国報に認定さ れるとそう気候が辿どるキャリアパスは 玉摩三ブ郎さんとほぼ同じなんですよね。 では人間国報とは何なのか?それは大学が いない大体不可能な存在のことです。 炭治郎が入院した時、妻さち子は言って ました。見物の皆さん納得する大学血筋の もんしかおらんやろけど血筋のものであっ ても義量が劣っていればやはりお客さんは 納得しません。存在そのものが無型文化剤 ということは得した技こそが文化剤だと いうことです。骨みに染み込んだ技術、 その技術を持った存在、そのものが人間国 です。だから大学がいない、大体不可能な 存在なんですよね。歌舞伎道落のうちの母 が昔ええこと言うてました。目が見える うちに綺麗なもんは見とかなあかん。感性 がどんまする前に、目が見えなくなる前に 本物の美、一流の美に触れること。是非 一度劇場で実際の歌舞伎をご覧ください。 現実を超えた究極の美がそこにあります。 はい、ということで映画国報について長々 と語ってまいりました。皆さんの感想是非 コメント欄で教えてください。それでは 次回の動画でお会いいたしましょう。 ネタリカでした。 [音楽]
📌今回ご紹介する作品
⭐作品名:『国宝』
📺予告編:https://www.youtube.com/watch?v=4LIm9S_xVGQ
🔗公式サイト:https://kokuhou-movie.com/
📅公開日:2025年6月6日(金)
👥出演:
吉沢 亮、横浜流星、高畑充希
寺島しのぶ、森 七菜、三浦貴大
田中泯、渡辺謙
🎬監督:李相日
📚原作:「国宝」吉田修一著(朝日文庫/朝日新聞出版刊)
📢配給:東宝
📝noteレビュー記事:https://note.com/netallica69/n/n8b4c8da5c4c5
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🎫目次
00:00 「国宝」
00:21 あらすじ
00:43 感想(ネタバレなし)
01:23 見どころ❶
07:03 見どころ❷
10:16 見どころ❸
19:52 ラストシーンの意味
28:36 雪の意味
31:02 人間国宝:小野川万菊
36:11 芸道とは?
37:50 女形とは?
39:17 舞台に立つ意味
40:51 俊介が逃げた理由
44:02 喜久雄の才能
46:14 タイトルの意味:人間国宝
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🐬一言だけ言わせてくれ
「俺な、今一番ほしいの俊坊の血ぃやわ…コップに入れてガブガブ飲みたいわ…」
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