徹子の部屋 内容:「最愛の母と弟が…『悲しい別れ』が相次ぎ」出演: 濱田龍臣

[音楽] 幸せそうな家族たち真ん中にいる女の子が 今日のお客 様です。どうぞおいでください 。今日はやかなお姿でご登場です。どう もよろしくお願いします。まあございます ね。 季節的に本当にぴったりあったもみの置き物ですけど、こっちのお袖の内側が綺麗なのね。ちょっとそうやって皆さんに見せてし上げてくださる。 こういう模様なんですよ。 感じで綺麗。うん。素敵。 はい。ね。はい。ちょうど今日のそう お花と私うちのね 色が本当あたりに合わせたんだと思って。 ありがとうございます。はい。 あの、去年の6 月にお母様がお亡くなりになって はい。 それであの弟さんもお亡くなりになったんですけどどかお体悪かったんですか? そうですね。ま、7 年ぐらい前に心臓の手術をして で、元気になったんですけども、ま、ね、こうニュインを繰り返すようになって、ま、最後の 2 年ぐらいはこう車椅子だったり、もう自分でこう立つことはできなかった。 ですけども、まだ若いのね、お母様ね。 77歳でした。 そうですよね。でもお母様が体調崩したっていう時には和歌山まで会いにいらしてったんですよ。 毎月帰ってました。 はい。ま、ヘルパーさんのお世話になったり、あの、ま、兄弟で姉や弟がこう面倒見てくれたりしてたんですけれども、ま、一月に 1回ぐらいは 時間があると帰ってで、ヘルパーさんの代わりにちょっとご飯を作ったりして うん。うん。 食べさせたりしてたんですけども うん。で、3 日ぐらいいると1日目、2 日目ぐらいまではまだ喜んでくれるんですが、もう 3 日目ぐらいになるとちょっと飽きるんでしょうね。私が美味しいどう?美味しい。ちゃんと食べたってうるさいもんですからヘルパーさんのが良かったみたいでもう 3 日目になるとちょっとこうんざりするような顔するんですけど。 それでもま、それぐらいしか親できないのではい。 でもお母様は20代で3 人の子供を産んで育ってた。 そうですね。すごいですね。 ですから正直その頃の母っていうのは怖かったですね。ちょうどこの頃私がこれ小学校 1年生になるかならないか。 真がね、あなたね。うん。 はい。だと思うんですけどとても怖かったです。 あ、そう。 でもそれはきっと余裕がなかったんでしょうね。子育てに追われてうん。 もう必死だったんだと気づくのにも相当私も年を重ねてから まそうですね。 ま、お母様の青春時代は想像したことあんまりなかったけどもなんか同級生の方が教えてくださったんですって。 はい。 あの、亡くなった時に母の同級生が来てくださって、で、母の青春時代の父との慣れ染めだったり、それからこう若い時に遊んでいた時のお話だったりで、そんな中で、あの、山裕さんのファンだったっていうの、 え、もうそんな話をなかった。 全く知らなくってですね。確かにその数年前に、ま、数十年前になりますかね。 あの、岡山さんとご一緒のステージを大阪でやらせていただいた時にありますねえ。 その時に母が見に来たんですけど、 もう大興奮だったんですね。もちろんこうやっておめにかかることはできなかったですけど、 その時にもうすごい喜び方で亡くなってからあの同級生に聞いて本当にこう熱狂的なか山さんのファンで あ、そう。 はい。あ、青春時代が母にもあったんだなって ちょっと嬉しくうん。そうですよね。 思いました。はい。 で、しかもその大好きな山さんとあなたが一緒に出てらったね、ご覧になったりしたらね、そりゃ 嬉しかったですよね。 親国ここできたかなと思いますね。 そうですよね。あのふみさんは歌詞を目指して 19 歳で状況なさったんですもんね。当時のご両親は今のふみさんよりも若いぐらい若かったですね。 うん。うん。 ですから、あの、多分すぐ戻ってくるだろうって諦めて、そんなにすぐデビューできるわけでもないし、そんな簡単な世界じゃないっていうのは田舎の両親でも分かってたと思うので、すぐに諦めて帰ってくるだろうと思ってたみたいなんですけど、 ま、この他こう順調に、 ええ、 ま、デビューにこぎつけてデビューからもトんトん病に行きましたんで、ま、あれよ、あれよという間に、ま、月日が経って 母、あ、もうこの子は歌が好きだから、この道で一緒は歩いていくんだろうなっていうのは でもお家も立てたわけになったんですよ。 そうなんです。デビューして5 年目にちょっと親高校のつもりで、 ま、あの、自分の生まれた町の隣町が南期白浜で、 あの、温泉もありますんで、そこに家を立ててプレゼントしたんですが、 でも居心地はやっぱ悪かったみたいですね。 あ、そう。うん。 ま、喜んではくれたんですけど、やはりこうその立てた数年後に父がちょっと事故でなくなりまして、で、その後はやっぱ母がそのお家で 1人でいることがちょっとし辛かった。 お友達はなんかもね、もうない。 近所にいないのででしかもその後また生まれたところに戻って隣町 15分ぐらいのとこなんですけど でご近所にお友達がいるところに戻っていたんですけどはい。 あ、そうなの。 なんかだから自分はと思ってするんですが結果的にはあ自己満足だったのかなって思うことが結構ありますね。 なるほどね。でもあの26 年前のことですけどお父様が 55歳でお亡くないになった。 うん。そうですね。父もこれも突然の事故でしたからまあ未だにちょっともうそうですね。 25年以上経つわけですけどうん。 人生何が起きるかわからないなって。 うん。1 月前に一緒にゴルフをしてで、それも悔まれてならないんですけどうん。 あの飛行機の時間がありましたね。ちょっと 10分でも15 分でもいいかお茶飲んで行こうよ。行けばいいじゃないかって言ってくれたんですけど、ああ、もう飛行機の時間があるからって、ま、また来るからって帰っちゃったんですね。それが結局最後の別れになってうん。 なんかその時のやっぱりこう目が寂しそうな目がやっぱり あ、そう、20 年以上経ってもやっぱ浮かびますね。 そうですか。うん。それはちょっと後悔は うん。いつまでとっても消えないです。 ま、その時はね、ちょっと分からないですもんね。 そうですね。はい。 ま、あた仕事お忙しいんだしね。 はい。行かなきゃなんないっていうこと。 でも家族のことを心から思うようになったのは そういうようなことがあってはい。 もう父が亡くなってから、やはりこう母のことが心配で、 ま、病気になる。もうずっと前から父が亡くなってからはもう 2 日あれば田舎に帰って母の様子を見てっていう風に するようになったんですけども、 ま、そして病気になってからはもうもっとさらにあの帰れる時は帰るようにしてました。はい。 でもお母様冬さんが面白いことをなされるとととっても喜んだんでそうなんです。真面目に歌う番組よりもちょっとこうあのバラエティな番組ですとかあとはま、ネタ切りになってからですけどこのコナ禍で私がちょっと YouTube でこういろんなことをやるようになってある時あのトラさんに紛争してこうバナナの叩き売りをやったりなんかこう色々やっ す。これあなたなの?これ私なんですけど すごい。 これを気に入って何度もずっと見て笑ってた。 でもこれおかしいですもんね。あの母方のま、私にとっては祖父母の父親に当たる、ま、私とっては祖父なんですけども面白い人だったんですね。 [笑い] あ、そうなの。 お芝居いが好きで歌が好きで面白いことが大好きなおじいちゃんだったもんですから、その自分の父親に私をちょっと重ねてみるみたいで。 あ、そう。はい。 とても喜んでくれました。はい。 そうですか。お母様がお付けになった梅は今も持ってらっしゃるんですって。そうなんです。前回ご紹介させていただいた時は食べる気満々だって、ま、大事にだこうと思ってたんですけど本当にあの後なくなってしまったので うん。1つも手をつけられずに あ、そうなの。 冷蔵庫に入れて眺めてます。はい。 でも美味しそうね。いかにもね、 いい色ですね。 すご失敗と思いますけど、本ん当ね。今お母様のへの思いは改めていかがですか? そうですね。ま、それはよく言えばもっともっと美味しいものを食べさせてあげたかった。もっともっといろんなところに連れてってあげたかった。もう色々あります。 うん。でもうん。 ま、 今母の後弟が、ま、大ように行ってきっと 父とあと弟と仲良くいてくれてると思い ますんで、ま、母は満足だったのかなと 思うようにしてます。はい 。ま、お母様なくなったのは去年のことな んですけど、なんと弟さんがはい。今年 そうです。 あの、母が亡くなったのが昨年の6 月で、その3 ヶ月後に弟に、ま、ガンガが見つかりまして、もうその時にはすでに、ま、嫁半年と言われまして 本当に あの、ま、母がネタ切りになって6 年間っていうのを弟が本当にずっと介護してくれてまして だから、ま、弟も、ま、父と同じ年で亡くなってしまったんですけど もう本当に自由だったのがわずか3 ヶ月であとは母が亡くなって3 ヶ月後からずっと治療をして 随分元気そうな方に見えますけどね。 これはもう少し前なんですね。 あ、そうなの?うん。 あの、母のためにワンちゃんを買いに行って。 あ、そう。でも、ま、その弟が、ま、母の 介護をしながら、あの、6年間いてくれて 、やっと、ま、ある意味ね、寂しいです けど、その、ま、自分のこれから人生をっ て言った時にガンガン見つかって、でも 強い明るいあの弟で、もう病気なんか負け てられないって、もうあらゆるもう治療 できる限りのことは全部やるからって、 絶対生きなきゃいけないんだって。 できるんだってすごくあの気持ちを強く持って頑張ってくれたんですけど はい。 だからまあね無念といえば無念なんですけどまだちょっと受け入れられないところはやっぱありますね。 そうですよね。 はい。やっぱ弟っていうのはちょっとうん。 あの、気持ちの整理が そうですよね。 なかなかつかないですね。だからどっかで受け入れたくないってのはまだありますね。 うん。ね。 ま、ま、漁って合わせてあの仕事に出るんですけども、その時だけでもう 1 歩家を出たらなるべく母のことも弟のことも忘れてそうしないとちょっと仕事にならないかなって思いながらやってます。はい。 なるほどね。 でも弟さんはお葬式についてなんか言残してらっしゃがあったんですって 娘たちにあのとにかく自分は自分を知ってる人にま、地元の新聞ですけど地元のあの自分のことを知ってる人みんなに知らせてくれと あそう 新聞にもデカデカ乗せてくれとそして派手に送ってくれ あそう ていう風に娘たちに言ったみたいでその娘たちから私 にそういう風に言うもんですから、ま、コ中で本当に家族層っていうのが主流になってますけど 弟がそう言うんだからと思ってあの芸能界のお友達や先輩方からもお花をいただいたり うん。 で、その中であの私は学生の頃から桑田啓介さんの あ、サダオルスターズの大ファンで うん。 で、私は知らなかったんですが、私が聞いてるもんですから、それを弟もずっと聞いてたみたいなんですね。 うん。 で、話がちょっとあちこち行っちゃうんですが、 4 年前に桑田さんに曲を書いていただいた時に うん。初めて弟から電話があったんです。 うん。 すごいなって。あの、桑田さんに曲書いてもらったんだ。すごいなって大興奮で電話ってきて。 あ、そう。 で、その桑田さんからもお花を頂戴して、ま、 業化を頂戴しまして、あ、そうなの で娘たちのあの希望で、ま、最後のお別れの時には桑田さんがお歌になったサザンオールスターズの歌で送らせていただいたんですけども 弟さんね。うん。はい。何をどんな曲? 愛しのエリーですとかうん。 あの、オクラウディアっていう、ま、アルバムに入ってる うん。 曲なんですけども、もうそれが流れた時は本当に娘たちも大号泣車の中でもいつも聞いていたし、カラオケでは絶対桑田さんの歌を歌っていた。 [音楽] あ、そうなんだ。 だから、ま、弟が思うような思ってた以上のきっとお葬式で 満足したようなだと思います。 きっとお姉ちゃんありがとうって言ってくれてると思います。でもね、あれですよね。弟さんも本当に若いのにね。 そうですね。55 っておっしゃいましたっけ?はい。 それにお母様続いてですものね。 そうですね。だからあ、姉がまだあの元気でくれてますんで。 うん。毎朝姉と電話で うん。 お互い元気なことを確認し合って余計密になりましたね、姉と。 うん。 私は東京にいますから本当に年に何回かしか会えない時もありましたしもう 10数年前になっちゃうんですが すごいね。家族で あんまり旅行とか一緒に行くことないんですけど初めて 沖縄旅行してうん。 その時の母もまだ元気だった頃です。 ええ。 はい。もうこれしか残ってないですね。 みんなで撮った写真は そうでもこれでも随分ね12345678 女の子ばっかりなんです。 女本当弟さんでもいらっしゃるからね。 はい。ですか父が亡くなった時もそうですけどやはりこう弟ではありますけど男の子はやっぱりどっかで頼りに そうですよね。してますんで。 その何か中心の弟がいなくなったっていうのはやっぱり そうね。 ちょっとうん。きついです。本当に そん時はもう歌えなくてもいいから弟に命があげないと思ったぐらいなんですって。うん。 毎日あの漁師に手合わせて本当に私も歌えなくってもいいから 1 日でも長く弟生かしてやってくださいってことお願いしました。 はい。お若いさんうん。今55 って言ったらねはい。まだまだ 若まだまだね。若いです。 これからです。はい。 まあ今健康で好きなことができているので あなたは ありがたいって思ってらっしゃって。 そうですね。 まずやっぱり健康であるってことが 何より幸せなことだなって その上好きな歌をこうやって歌わせていただいて うん本当に申し訳ないぐらい幸せではい あの冬さんには東京のお母さんがいる 双葉ゆり子先生ですけれどもあの今年双葉先生もあの哲子の部屋でお世話になってとても喜んでらっしゃって あの番組をご覧になった方が引退はされてるんです がこんなに双二先生を元気だったら歌ってくださいっていうことで あちこちからお声をかけていただいたりなんかして私とご一緒にステージに立っていただいたりはい。してますが やはり二双葉先生には私がま、20 年ぐらい前に休業した時に救っていただいてあのそれから うん。もう約20 年になりますけどもそれこそ毎夜電話をして うん。 あの今日はどこどこ行ってきます。うん。 あの、今日はどこどこ行ってきました。東京の 本当にお母さんのような存在ですね。 なんかお化粧前をおもいになったんでしょ? はい。あの、舞台であの使えるように、楽屋で使えるようにえ、 この真っ赤な種の すごい兄弟を頂いて、 明治座公園ですとか、大阪の新舞伎座公園ですとかやらしていただく時に使わせていただいてます。 うん。 ま、双葉先生は本当家坂本歩の命の人と言ってもいいと思ってらっしゃるんですって。 そうですね。その休業した時にはもう歌をやめてそのまま田舎に引っ込んでって思ってたんですけど はい。 でも、ま、こうかと言って何をしていいかわからない、ちょっとこうもん々んとした日々が続いた時に双葉先生の眼壁の歯を聞いてもう一度歌ってみようっていう風に思わせていただいて、それから、 ま、あの、火用老局を習うようになりまして うん。 ですから、今コンサートでも必ず火用労局を、 あ、そうなの?入れさせていただいて、 あっちに久の方がいらっしゃところを稽古してらっしゃった。 はい。そうなんです。 これはもう本当に先生のもう叩いた頃のもう 10 数年前のお写真になりますけども、今も先生本当にお元気でお声もすごいよく出るんですね。 あ、そうですか。 ああいう場合の教えはどういう風な あの、ま、おしみにあれはもうおしみ戦の先生が来てくださってますから仕上げの段階ですけど先生が一歌いそしてその後続けて私が一歌いというこうオーム返しで うん。あ、そう。 はい。お稽する感じですね。 うん。はい。その間に写見線が入って はい。そうですね。 はい。あとセリフがあったり はい。大変だね。そうですね。 ま、でもそのおかげでコンサートのこう中身がすごくこう集みが出たと言いますか うん。自分のオリジナルだけではなくて そういった火用労局をやはりこう15分 20 分のコーナーでやらせていただきますので すごく厚みが出ましたし地方へ行けば行くほどやっぱ喜んでくださいますね。 はい。 12月にコンサートもなさるんですね。 そうなんです。 ま、東京と言いますと、大体劇場公園が多いのでコンサート自体が本当に久しぶりでして、 え、EXシア六本木という、 あ、もうど真ん中ですね。もう初め、 このすぐ近く はい。初めて立たせていただくステージでやらせていただきます。 うん。うん。 あの、お戦も入るんですか? おしゃみは入らないんですが、二葉先生の代表局でもあります。眼壁の母をうん。 あの、ロングバージョンで さあ、はい。セリフありの あれセリフが入ってね、ちょっとも前に聞かせていただいたけど あとはもうふみさんの歌がたっぷり聞ける はい。 そして今回はあの昭和の歌姫のえ、みひ張さん、千明直美さんといった大先輩方のカバー局も歌わせていただきます。はい。 そう。あなたはあのこんな忙しいのにあのリフレッシュとしてお花とか野菜を育ててらっしゃる。 そうなんです。 それもコナ禍で始めたんですけど、そうしますとファンの方がいいんなものを送ってくださって、今年は、え、 なんとりんゴの器、ええ、 小さなりんごなんですけど、うん。 今これよりもう少し色づいてきてます。 ええ、 これぐらいの本当に小さなりんゴなんですけども。 ええ、 でもこのりんゴの木がこう身がね、美味しくいただければいいんですが、 ちょっとこう真っカリりになった時にはちょっと食べてみたいと思う。 そうですよね。うん。 あの、前に健康作りに自宅の男の階段あがり折りしてらっしゃるとかっておっしゃってたけど、今もやってます。 うん。はい。15往復 すごいですね。15 往復を一生懸命。それでやっとこう汗がこうじわっと出てくる感じです。 何ぐらいの階段なんですか?12段の12 段か13段の3階までなんです。すごい ですか?ま、東京にいる時はお仕事に行く時はできませんけど、結構ですから、あの、たまに あの、地方から帰ってきてやるとふハがもうパンパンになりますね。 あ、本当?はい。 じゃ、相当ですよね。だけどそれ 結構な今ね、伺っただけでも じゃあもうそれ歌うためにはもう そうです。もう長く歌うためにはい。 そうですよね。はい。 そうのは嫌じゃないの? そうですね。 元々やはりこうソフトボールとかやってキャッチャーでしたから。 あ、そうか。はい。はい。 前にやっちゃったですね。そうですか。 ま、そうやって体を作って、これからも素敵な歌を聞かせてくださいればと思います。 [音楽] ありがとうございます。 本当に。でもね、お父様のこと、お母様のことはい。哲子の部屋は寺で過去の放送会を配信中。 [音楽] 無料見逃し配信はアマティーバー [音楽]

徹子の部屋 内容:「最愛の母と弟が…『悲しい別れ』が相次ぎ」出演: 濱田龍臣