追悼 和泉雅子 日活映画 吉永小百合 松原智恵子 山内賢 高橋英樹

日愛路線の一角を担った青春スター泉子が 亡くなった。彼女は自分の青春時代が王化 できたのも日という男女驚愕の学校があっ たからだと言っていたのが印象に残る。 ここで日活の撮影上を学校と解釈する いかにも彼女らしい発想であるがそんな泉 が日活映画で果たした役割はスコブル 大きかった。泉は日活の映画デビューが 昭和36年の14歳の時であり、ちょうど 日活がアクション映画と吉さゆりの純愛 路線との2つの路線が主流となる時期の デビューであったことも大きかった。そこ で吉永、松原、ち恵子、泉の3人が代々的 に日括の看板女優として売り出されるのだ が、その中でも末えっこである泉の役回り は3人と比べると聖来の明るさを生かし、 お天場な娘役が似合っていたように思う。 また相手役も高橋秀や山内県のコンビが 多く、山内とは映画よりも歌に合わせて 映画が作られていたくらいの人気ぶりで 山内とのデュエットのヒット曲2人の銀座 が最もよく知られた歌であった。また女優 としても単なる青春映画のスターではなく 、本格的な演技派女優として認められた 映画作品が裏山桐リオ監督の飛行少女から であった。彼女にとっての全盛紀は昭和 30年代半ばから40年代半ばまでが最も 活躍した時代であった。やがて日活が映画 の方向性を変え傾きかけていくと彼女も 年齢を過ぎ、青春映画の女優から大人の 女優へと転換を図るものの映画界からのお 呼びがかからず主力は主にテレビ出演を 中心の出番となった。彼女の持つ自然体の 明るさとどこか親しみやすい雰囲気は観客 の共感及び特に若者たちにとっては理想の 友達や憧れの先輩のような存在であったと も言えた。Aが飛行少女で見せたシリアス な演技は青春スターという枠を超えて女優 としての新たな地兵を切り開いたもので あった。桐リオ監督のリアリズムに満ちた 作品の中で泉は等身台の少女の葛藤や痛み を繊細に表現し評価からも絶賛された。 これは単なる可愛い女優ではなく内面の深 さを持った俳優であることを証明する ターニングポイントとなった。しかし昭和 40年代後半に入ると日括はロマンポルの 路線へと家事を切り、かつての青春路線は 次第に姿を消していく。この転換機におい て泉もまた自らの震路に変化を求める必要 が生じた。青春の象徴であった彼女が大人 の女優へと移行するには当時の映画会には まだその受け皿が十分とは言えず結果的に テレビドラマやバラエティなどへ活動の場 を移すこととなった。テレビ時代に入って も泉の人気は衰えることはなく明るく 親しみやすいキャラクターはそのままに 多くの番組で活躍を続けた。そしてやがて 彼女は女優としての枠を超え、冒険家とし て北極権単独校など移植の人生を歩むこと になる。泉がテレビ会に活動の場を移して からもその親しみやすさや天身ランマンな キャラクターは変わることなく多くの番組 で愛された。バラエティや旅番組などにも 積極的に出演し、従来の銀幕のスターとは 一戦を隠す身近な存在としてお茶の間の 人気を拍した。彼女は女優としての華やか さを持ちつつも自然体で飾らない人柄を 貫いたことで視聴者の共感を得ていたと 言えた。そんな泉の人生におけるもう1つ の大きな天気が北極への挑戦であった。 彼女はなんと女性としては極めて稀れな 単独北極点到達を目指し本格的に冒険家と しての道を歩み始めた。当時芸能人が冒険 をするという発想自体が珍しく彼女のこの 大胆な決断は多くの人に驚きを与えた。 厳しいトレーニングや極感の自然との戦い を経て泉は1989年日本人女性として 初めて北極点到達を果たした。この挑戦を 通じて彼女は女性だから芸能人だからと いった規制概念を打ち破り真の意味での 自己実現を果たしたとも言える。青春 スターだった泉ま正子が人生の後半におい て挑戦する女性としての新たな姿を提示し たことは多くの女性たちに勇気を与えた ことだろう。余裕、テレビタレント、冒険 家という3つの顔を持ちながら一貫して 彼女を支えていたのはあの日活という学校 で育まれた自由で明るい精神だったのかも しれない。青春映画の中で見せていた無邪 なお天場娘はその後の人生でも自らの道を 切り開くエネルギーに満ちていたのである 。

和泉雅子さんの突然の訃報には驚いた。彼女の全盛期時代は日活の女優として活動した時代にこそあった。