「極道の妻たち」で見せた女の闘いの美学 夏目雅子 岩下志麻 かたせ梨乃 池上季実子 浅野温子 五社英雄

映画監督母はことに俳優の演技に対しては 妥協を知らずの徹底ぶりであった。それは 映画幼器郎や極道の女たちなどに見られる 女同士の激しい乱闘場面によく現れていた 。まさにそれは独断とも言える者秀吉監督 の演出力の玉物であった。例えば陽気郎の 大きな見場となる麻野子と池神子の壮絶な 喧嘩シーンは両者が一切の遠慮を捨て 激しくぶつかり合う迫力のあるシーンで あった。それはコテ先だけの演技だけでは 到底なえない演出であるだけに撮影前から 事前に両女優を別々に煽り意図的に互いの 間に緊張感と対立神心を生み出す監督独自 の演出法が試みられていた。もはや大本上 の演技を超え、その内面から湧き上がる 感情をぶつけ合うために2人には親しくし てはいけない。口を聞いてはいけないと まで言い聞かせ、徹底的に役に入り込ませ たのである。そして本番直前者は静かに 彼女たちの身元でさく。まるでリングに 上がるボクサーに火をつけるかのように 互いの投資を煽り立てるのだ。その結果、 撮影が始まると2人はまさに全身前例で ぶつかり合い、紙を引っ張り、水を浴び、 泥まみれになるほどの壮絶な乱闘シーンが 繰り広げられた。このシーンの後、カット がかかってもその金迫感はしばらく抜け きらず、女優は呆然としたまま方針状態で 立ち尽くしていたという。このように誤者 の演出は単なる指示にとまらず、役者の心 の奥底にまで火をつけるなる技を持ってい た。こうした誤者の演出法は同じく紀流員 花子の障害でもナメ正子が演じた女の内面 に潜む劇場を見事に引き出している。ナメ は当時すでに大女優としての地位を確立し ていたが誤者の現場では1人の女優として ゼロから作り直されるような覚悟を求め られたという。母者は現場で一切の妥協を 許さず、時に厳しく時に静かに女優の心に 入り込み、こと女性の演出においてはその 悲凡な才能を発揮した演出家であった。彼 の作品における緻密な女性描写は極めて匠 であり、魂を揺さぶる演技を引き出すので あった。また彼の作品に登場する女性たち は決して単なる美しさや悲しみの象徴では ない。そこにはまるで女性の差を 知り尽くしたかのような女の強さともろさ 、激しさと優しさ、その全てを抱えた生き た女性像の進化を引き出したのだ。それは まさしく母者秀夫という演出家が女優と いう存在を深く理解し、最大限に生かす術 を持っていたからに他ならない。そして者 秀夫の演出の新骨長が随所に見られた牧堂 の女たちシリーズでは岩下島と片瀬リノの 壮絶な乱闘場面はその頂点とも言える名員 となった。中盤に登場するこの場面では僕 魔同士のプライドと女の意地が激しく ぶつかり合い見るものを息を飲ませるほど の迫力を放っていた。このシーンの背景に は単なる女の居酒では済まされない牧堂の 世界に生きるものとしての覚悟と教事が 込められているのも忘れてはならない。 長年この世界で姉子としての存在感を放っ てきた岩下した。その一方片瀬リノは新身 の勢いを持ち決して引けを取らない真の強 さを見せる。まさに古気女帝と新しき除血 との一気打ちの名場面である。母者はこの 対決を単なる肉体的衝突としてではなく 精神と精神の激突として演出するため現場 では互いの規迫を徹底的に高めていった。 撮影前岩下と片瀬にはセリフ以上に相手を 絶対に認めるな女としての譲れぬ誇りを 見せろと言い聞かせたという。そして本番 2人は睨み合いながらついに言葉では 収まらぬ衝突に至る。着物の裾をひ返し髪 を振り乱しながらの格闘はまさに命をかけ た戦いのごとく悪感のリアリティを見せた 。時に土合を発し時に静かに睨みつける そのますら母者は一瞬たりとも逃さず カメラに収めていた。この乱闘場面におけ る最大の妙味は単なる暴力性ではなく互い を絶対に認めたくないという女の真層心理 がにみ出ている点にある。それを引き出せ たのは誤者が女優1人1人の役者魂に火を つけ演じるという意識すら忘れさせるよう な空気を作り出したからに他ならない。 撮影後岩下も片瀬も役の熱が覚めずその後 2人はしばらくしてからようやく互いに笑 をかわしたと伝えられている。まさに演技 を超えた演技。これが誤者英雄の現場で あり、彼が気づいた女の戦いの美学なので ある。

女優を描く事に定評のあった五社英雄の演出力が、女優の本質に潜む◯◯を引き出す。