岩下志麻「また来るわね」― 篠田正浩の遺骨に毎日語りかける 58年の夫婦愛

また来るわね。明日も頑張るわね。 2015年秋 84歳の岩下島は毎日夫の所斎を訪れ異骨 にそう語りかけています。 今日あったことを報告してまた来るわと声 をかけて部屋を出る。 まるで58年間続けてきた日家のように 58年前2人は何もないところから始まり ました。 1960年神楽坂の旅館 オーディション会場に現れた男は ショッキングピンクのショートパンツに 金色のペンダント。 19歳の岩下は思わず聞きました。 あの監督さんは 僕です。 それが全ての始まりでした。なぜ2人は 会社や世間の猛反対を押し切って結婚した のか。58年間何が2人を同じ方向に 向かわせ続けたのか。 そして最後の日、なぜ岩下は夫の死に 間に合わなかったのか?今日は岩下島市の 田ひの物語をお伝えします。 1960年神楽坂にある小さな旅館の一室 で映画のオーディションが行われていまし た。 の新作が乾いた湖の主演 女優のオーディションです。 監督は篠正弘。当時に18歳。 小築ヌーベルバーグの騎士として注目を 集めていた新身の映画監督でした。その日 オーディション会場に1人の女性が現れ ました。 岩下島。農時19歳 小築過激団を経て女優としての道を歩み 始めたばかりの新人でした。部屋には一体 は下は思わず目を疑いました。 そこにいたのはショッキングピンクの ショートパンツを履き、派手なアロハ シャツを着て金色のペンダントを首から 下げた男性。 どう見ても映画監督には見えません。岩下 は周囲を見回して恐る恐る訪ねました。 あの監督さんは 僕です。 篠正弘はそう答えました。 その瞬間、部屋にいたもう1人の男性 脚本家の寺山修二がし野と顔を見合わせ ました。あの子ですね。2人は即座に岩下 を主演に決めたのです。 後年し田は妻にこう聞かれたことがあり ます。 どうして私を選んだの?し田の答えはこう でした。 それは品があったから 品だけは演技じゃ出せない。 才能でも美亡でもなく品野田 は19歳の岩下の中に演技では表現でき ない何かを見い出していたのです。 撮影が始まりました。 ある日ラブシーンの撮影がありました。 岩下にとって初めての経験です。 緊張して固まっている岩下にし田は容赦 なく指示を飛ばしました。 はい。キスして早く。 それが篠田正弘という監督でした。 現場では厳しく 妥協を許さない。 新人だからと言って手加減することはあり ませんでした。 この撮影を見ていた人物がいます。 日本映画館の巨匠おや次郎です。 オずは完成した乾いた湖を見て岩下の才能 を見抜きました。 そして自身の遺作となるサンの味に岩下を 抜擢したのです。 1960年神楽坂の旅館であった2人。 この時2人の間に恋愛感情はまだありませ んでした。 監督と女優、それだけの関係です。 しかし この出会いが2人の人生を大きく変える ことになります。 58年後、岩下は毎日夫の所斎を訪れ、 異骨に語りかけることになるのですから。 あの日、篠が岩下を怒鳴った声。その声を 岩下は58年間聞き続けることになるとは まだ誰も知りませんでした。 オーディションから4年が経っていました 。 1960年から1964年までし野田と下 は何度も仕事で顔を合わせていました。 しかし2人の関係は監督と女優。それ以上 でもそれ以下でもありませんでした。 プライベートで食事をしたこともなければ お茶を飲んだこともない。 4年間ずっとそうでした。 天気が訪れたのは1964年のことです。 京都で映画暗殺の撮影が行われていました 。 篠田が監督、岩下が出演。いつもと同じ 仕事の関係です。 ある夜、撮影が終わった後、2人はポント の両亭で食事をすることになりました。 仕事仲間との食事それだけのはずでした。 しかしその夜は違いました。 シ野田は熱く映画について語り始めました 。 映画とは何か?表現とは何か?自分は何を 取りたいのか? 岩下はその言葉に引き込まれていきました 。 デートではいつも熱く映画のことを語って いましたね。 岩下は後年こう振り返っています。 でもまだ恋愛感情はなくて尊敬止まりでし た。 その夜2人は日本酒2勝、およそ3.6L も見ました。 しかし不思議と酔いませんでした。 緊張していたのかもしれません。やがて 撮影が終わり、クランクアップの打ち上げ パーティーが開かれました。 会場は赤坂のナイトクラブ。大勢の スタッフが集まり賑やかな夜でした。 バンドが警戒なマンボを演奏し始めました 。 岩下橋の田の手を取りダンスフロアへとい ました。 マンボを踊りながら岩下は突然こう言い ました。 私監督さんと結婚しそうな気がします。 篠田は激怒しました。 成準派の女優がそんなことを言うもんじゃ ない。マンボのリズムの中で2人はいい愛 になりました。 し田は本気で怒っていたのです。 しかし不思議なことが起きました。 その怒りが恋の始まりになったのです。 篠はこ年こう語っています。 あの夜から彼女のことが気になり始めた。 マンぼを踊りながら放った岩下の予言。 それは3年後現実のものとなります。 しかしその道のりは決して平坦ではあり ませんでした。 2人は誰にも知られてはいけない秘密を 抱えることになるのです。 1964年マンぼの夜から2人の関係は 変わり始めました。 週に2回2人は密かに会うようになりまし た。 映画の話をし、食事をし、少しずつ距離を 縮めていく。 しかしそれは誰にも知られてはいけない 秘密でした。なぜ秘密にしなければなら なかったのか。 1960年代の日本社会では女優の恋愛は 大きなスキャンダルになりました。 結婚前の同性など発覚すれば女優生命が 立たれかねない時代です。 岩下島は小築の看板女優。会社にとって 彼女は大切な商品でした。 それでも2人は一緒にいることを選びまし た。 延遠長府の完成な住宅街に一見の家があり ました。 2人はそこで密かに暮らし始めたのです。 同性生活はおよそ2年から3年続きました 。 SNSの盛内なら大変だったでしょうね。 岩下は後年こう振り返っています。 見つかんなかったな。 マスコミに追われることもなく、会社にも 気づかれることなく、2人は秘密の生活を 続けました。 当時はまだ芸能人のプライベートを 追いかけるパパラッチ文化は浸透してい ませんでした。 それが2人を守ったのかもしれません。 年、篠はヨーロッパへ取材旅行に出かけ ました。 岩下から遠く離れた異国の地でし田は体調 を崩しました。 高熱が出てベッドから起き上がれない日が 続きます。 その時し田は震える手で手紙を描きました 。 熱でもろうとする中、1文字、1文字岩下 への思いを綴ったのです。 その手紙を受け取った岩下は震えるような 筆跡を見てし田の思いを確信しました。 普段は弱さを見せない男が病いの中で自分 に手紙を書いている。 その事実が岩下の心を動かしました。 2年以上の同性生活。 震える文字で書かれた手紙。2人はもう 後戻りできないところまで来ていました。 1967年篠正弘は岩下島に正式に プロポーズをします。 しかし、その言葉は普通のプロポーズとは 全く違うものでした。 結婚しても女優はやめないで欲しい。 し田正弘のプロポーズはこんな言葉から 始まりました。 むしろ結婚生活を栄養分にして女優として もっと豊かになって欲しいんだ。 年代の日本では女性は結婚したら家庭には いるのが当たり前でした。 女優が結婚も仕事を続けることはむしろ 例外的なことだったのです。しかし田 は違いました。女優として家庭は急速の場 にして家事も一切放棄していいよ。家事を しなくていい。 仕事を続けてほしい。 これが篠田正弘のプロポーズでした。岩下 は驚きました。 同時にこの人と一緒に歩いて行けると確信 しました。 しかし結婚への道は険しいものでした。 小築はもう反対しました。 岩下島は小築の看板女優です。 彼女が結婚すれば人気が落ちるかもしれ ない。会社にとってそれは大きなリスク でした。 小築の幹部たちは毎日のように下の元を 訪れました。なぜ1人の男の所有物になる のだ。 そう言って結婚を思いとまるよう説得を 続けたのです。 会社の99%が反対していたとも言われて います。 株主まで同員して結婚をそしようとしまし た。しかし岩下島は屈しませんでした。 あまりに激しく反対されるものだから帰っ て結婚してみようと思っちゃった。 岩下はこうね、こう語っています。 反対されればされるほど石は硬くなって いったのです。 そしてこうも言いました。 いいじゃない。 結婚してダめならもうそこまでの女優よ。 26歳の岩下島は覚悟を決めていました。 女優としてのキャリアをかけてでもこの人 生きていく。 そう決めたのです。 篠正弘もまた大きな決断を迫られていまし た。 小築の専属監督として会社に守られながら 映画を取り続けるのか。 それとも会社を離れて独立するのか。 下との結婚はし田にとっても人生の天気 でした。 1967年、2人は京都大徳自高員で結婚 式をあげました。 物式の静かな式でした。会社の反対を 押し切っての結婚。 華やかな疲労園はありませんでした。 同じ年篠正弘は小築を代謝し、独立 プロダクション表現者を設立しました。 大手映画会社の日を離れ、ゼロから映画を 作る道を選んだのです。 2人の新しい人生がここから始まりました 。 しかし独立の道は想像以上に険しいもの でした。 そして岩下島は夫の弱さを初めて目にする ことになるのです。 1967年篠正弘が小地を代謝した日の ことです。 その夜岩下島は信じられない光景を目にし ました。 普段は決して弱い部分を見せないしだが、 ウイスキーを1本開け、完全に良い潰れて いたのです。 普段は決して弱い部分を見せないしだが、 小築を辞めた日にウイスキーを1本開けて ヘベレケになっている姿を目撃したんです 。 岩下は後年この夜のことをこう振り返って います。 映画会社を離れるということは安定した 収入を失うということです。 撮影所もスタッフも配給網も全てを失う し田にとってそれは想像以上に大きな決断 だったのでしょう。 しかし 岩下はその姿を見てむしろ安心したと言い ます。 この人にも弱さがある。 だからこそ支えていける。 そう思えたのです。 1967年、2人は表現者を設立しました 。 最初の作品は 1969年の新獣店の網島。 近松モザ門の人形ジルりを映画化したい 欲作でした。 しかし 独立プロダクションには配給がありません 。映画を作っても上映してくれる映画館を 見つけなければならないのです。 島は自らチケットを売り歩きました。 の看板女優だった女性が1枚1枚手売りで チケットを売る。プライドを捨てて夫の 映画のために走り回ったのです。 その努力が実り新獣店の網島は大ヒット。 キネ間順方ベスト1位に輝きました。 2人の賭は成功したのです。 しかし 世間の目は厳しいものでした。 岩下島は悪と呼ばれるようになっていまし た。 理由は家事をしないこと。 シ野田との約束通り岩下は家事を一切し ませんでした。 そのことが週刊誌で報じられると世間から の批判が殺頭したのです。 の風にも置けない。 そんな言葉を浴びせられました。 1960年代から70年代の日本社会では 結婚した女性が家事をしないことは考え られないことだったのです。 岩下はこう語っています。 世間的には家事をしないと知られたことで 主婦の風かにも置けないとかなり激しい バッシングを受けました。 それでも岩下は自分のスタイルを変えませ んでした。 篠との約束を守り続けたのです。 1973年岩下島は32歳で娘を出産し ました。 女優として、妻として、そして母として、 岩下は新しい役割を担うことになりました 。 ある日、娘がまだ最か3歳の頃のことです 。 祖父が孫号撮影現場に連れてきました。 娘に母親の仕事を見せてあげようと思った のでしょう。 しかし、撮影中の岩下を見た娘は激しく 泣き出しました。 肝の姿に白塗りの化粧。普段の母親とは 全く違う姿に幼い娘は怯えたのです。 まるで日をつけられたように泣いた。 そう伝えられています。 この出来事以来、岩下は娘に自分の出演 作品を見せることをやめました。これは 映画の中の母家の母じゃない。 娘にはそう説明したと言います。 一方で岩下は娘の学校行事には必ず出席し ました。 運動会も学芸会も授業参官も どんなに忙しくても娘のためには時間を 作りました。 嬉しかったけど恥ずかしかった。 娘はこうね、こう語っています。 有名な女優が母親として学校に来る。 周囲の注目を集めることは避けられません でした。 娘は慶王技塾の付属校皇校から慶王大学 経済学部へ進学 高校を主席で卒業したと言います。 そして大手広告代理店の電通に入社し26 歳で結婚しました。 26歳。 それは母島が結婚した年齢と同じでした。 1973年から1975年にかけて岩下島 は3号に苦しみました。2年間暗い トンネルの中にいるような日々だったと 言います。 しかし 1977年の映画離れゴゼオリンで復活を 果たしました。 この作品で岩下は数々の賞を受賞。 女優として新たなステージに立ったのです 。 悪いと呼ばれバッシングを受け に苦しみながらも岩下島は歩みを止めませ んでした。 では58年間何が2人を同じ方向に向かわ せ続けたのでしょうか? その答えはし田ひの独特な妻の呼び方に 隠されていました。 死野弘は妻のことを決して相性で呼びませ んでした。 岩下島 あるいは岩下さん 結婚しても子供が生まれても50年以上 経ってもし田は妻を芸名で呼び続けたの です。 なぜそうしたのか? しの田はこう説明しています。 僕は女優位は下島を妻にもらったのだ。 普通の妻を目取ったのではない。 女優下島という存在を伴侶にしたのだ。 だから芸名で呼ぶのは当然のことなのだと 。この言葉に58年間の結婚生活の秘密が 詰まっています。 篠は岩下を家庭の人にしようとはしません でした。 あ女優として尊重し続けたのです。 イわし田島はかけずのお島と呼ばれてい ました。 時代劇では知があっても岩下はゆっくりと しか歩かない。 そのことがある種のトレードマークになっ ていました。 実はこれには理由がありました。 岩下は強度の禁止だったのです。 走ると危険でゆっくり歩くしかなかったの です。 しかし はこう言って妻をかいました。いいじゃ ないか。 女優なんだから 女優としての岩下を守る。 それがし田正弘のスタンスでした。 2人の日常には独特のルールがありました 。 離れている時は必ず毎日電話をする。 どんなに忙しくてもこの週間は守られまし た。 岩下がロケで地方にいる時、篠が海外に いる時、2人は毎日 声を聞き合っていたのです。 この週慣が58年間続きました。 2人の性格は正反対でした。 篠は短期でせか地 玄関で岩下を待つ時20分も待たされる ことがありました。 岩下はどこまでもマイペースだったのです 。 ゴルフを一緒にしたこともあります。 しかし、岩下はクラブを放り出して帰って しまいました。 篠田のせっかちな指導に我慢できなくなっ たのでしょう。 それでも2人は一緒にいることを選び続け ました。 1974年甘国際映画祭 し田監督作品が出品されました。 主演は岩下島。彼女はこの日のために2 年間フランス語を勉強していました。 現地でフランス人のヘアスタイリストに紙 を整えてもらうことになりました。 岩下は10本の缶差しを自賛し、そのうち 1本を選んで欲しいと頼みました。 しかし、フランス人スタイリストは驚く べきことを言い出しました。 全部使いましょう。 10本全ての缶差しを頭に誘うとしたの です。 フランス人にとってそれは日本の芸者の イメージだったのかもしれません。 岩下は困惑しながらもそのまま部屋を出 ました。 し田はその姿を見て大笑いしました。 そして9本の缶差しを抜いて1本だけ残し たのです。 その夜のパーティーで岩下はあの スタイリストと再開しました。 彼女は明らかに不機嫌そうでした。 自分のスタイリングが却下されたことが気 に入らなかったのでしょう。 この出来事を岩下年田は後年まで笑い話に していました。 一緒に海外平気、一緒に困難を乗り越え、 一緒に笑う。 そんな日々が25年間続きました。 岩下島には意外な一面がありました。 大の阪神タイガースファンだったのです。 コロナ禍で自宅のリビングで大好きな阪神 の試合に大声を張り上げながら熱狂して いる そんなエピソードが伝えられています。 テレビの前で叫び一気有する 普段のお島様とは全く違う姿です。 1986 年市野は岩下島にこ告げました。これで僕 が取るした島は最後だよ。監督として妻を 取ることをやめる。 そう決めたのです。 同じ年岩下島は極道の女たちシリーズに 出演を開始しました。 僕妻と呼ばれたこのシリーズで岩下は新た な代表作を手に入れることになります。 篠の映画を離れても岩下島は女優であり 続けました。 それこそが篠野の望んだことだったのです 。 2003年篠正弘は映画スパイゾルゲを 最後に監督業を引退しました。 72歳 40年以上に渡る監督人生に自ら幕を引い たのです。 引退後、し田は穏やかな日々を過ごしてい ました。 一筆活動をしたり、講演をしたり、映画 監督としての激しい日々から離れ、静かな 生活を送っていたのです。 2017年2人の結婚50周年を祝う会が 開かれました。 その席で篠正弘は印象的な言葉を残してい ます。 映画という魔物に取り憑かれて2人で魔物 大児をやってきたようなもの。 映画という魔物。それは2人を魅了し、 2人を苦しめ、2人を結びつけた存在でし た。 シ野田にとって映画は逃れられない魔力を 持ったものだったのでしょう。 その魔物と戦うために岩下島という存在が 必要だった。 2人で一緒に映画という魔物に立ち向かっ てきたのです。 言わした島もまたこの日言葉を残してい ます。 私たちは同士であり戦友であり2人同じ 方向を見て生きてきた。 それが私たち夫婦にとっての結婚だった。 同詞であり、占である。 向い合うのではなく、同じ方向を見て歩く 。それが58年間の結婚生活の本質だった のです。 結婚後10周年の記念に2人は家族を連れ て京都を訪れました。 目的地は大自高等員。50年前に結婚式を 上げた場所です。 しかし高等員は修復工事中で中にはいる ことはできませんでした。 それでも2人は門の前に立ち、50年前の 日を思い出していました。 あの日、会社の反対を押し切って結婚を 決めた若い2人。今こうして孫と一緒に ここに立っている。50年という最を2人 は噛しめていたのでしょう。 2019年頃から篠田正弘の隊調に変化が 見られるようになりました。 パーキン病でした。 手が震え、歩行が困難になり、日常生活に も師障が出始めました。ここで50年前の 約束が逆転することになります。 1967年、篠は岩下にこう言いました。 家事も一切放棄していいよ。 その言葉通り岩下は50年以上家事を ほとんどしませんでした。 悪と呼ばれようとし田との約束を守り続け たのです。 しかし が病に倒れると岩下は自ら家事を 引き受けるようになりました。 毎日の献立てを考え、家の中を整え、夫の 世話をする。 50年なかったことを自分から始めたの です。 誰に強制されたわけでもありません。 し田が頼んだわけでもありません。 島は自分の意思で家事を始めたのです。 それは形を変えた愛情でした。 約束を守ることが愛情だった50年間。 約束を破ることもまた愛情なのだと。 岩下はこう年こう語っています。 年齢と共にいろんなことがゆっくりになり ました。 今は私と店舗が同じくらいでちょうどいい の。 若い頃し田はせか地で岩下はゆっくり 正反対の2人でした。しかし年齢を重ねる につれて田 の店舗が落ち岩下と同じになった。 ちょうどいい。 その言葉に置いていく夫への愛情が詰まっ ています。 58年間同じ方向を見て歩いてきた2人。 その歩みが間もなく終わりを迎えようとし ていました。 201515年が月コ 佐ひの94歳の誕生日でした。 その日家族が集まりさやかな誕生が開かれ ました。 娘や孫たちが祝福の言葉を送り、篠は 穏やかに微笑んでいました。 し田はこう言いました。 94歳だなんて こんなに生きるとは思わなかった。 そしてふのことを思い出したようにこう 続けました。 初めてに行った時のことを覚えているか。 1974年の間ぬ国際映画さ、ひみ子を 携さえて2人で初めて海外の映画祭に参加 した日のことです。 あの10本の缶ざ差しの出来事も今となっ ては懐かしい思いでした。 誕生日から数日後、篠は肺炎を発症しまし た。 入院し、治療を受けることになりました。 担当の看護師は岩下にこう告げました。 1週間もすれば回復するでしょう。 その言葉を聞いて岩下は安しました。 ヘッドサイドで岩下は夫にこう言いました 。 良くなったらすぐ家に帰りましょうね。 し田は小さく頷きました。 うん。 それがし田正弘が妻に向けた最後の言葉に なりました。 2025年3月に14日岩下島は一旦自宅 に戻りました。 何日も病院にとまり込んでいた疲れを少し 痩そうと思ったのです。看護師の言葉を 信じていました。 もうすぐ回復する。もうすぐ一緒に家に 帰れる。 しかし翌日の早朝 病院から連絡が入りました。 に15年が罪中をと午前5時 篠正は静かに息を引き取りました。 去年94歳 誕生日からわずか16日後のことでした。 島は夫の死に間に合いませんでした。 58年間人生を共にしてまりましたので、 今はただ悲しみと喪失の思いで胸が いっぱいです。 岩下はそうコメントを発表しました。 1960年神楽坂の旅館であった2人。 1964年マンボを踊りながらこの人結婚 すると予言した夜。 190617 年全てを捨てて一緒に歩き始めた日 58年間の日々が終わりを迎えたのです。 田の死後岩下島は何もできない日々が続き ました。ただ泣くばかりで葬儀の準備も何 もできない。 全ては娘が代わりに手配しました。 やがて異骨は自宅に戻ってきました。 岩下はし田の異骨を所斎に暗しました。 生前し田が最も多くの時間を過ごした部屋 です。 そして岩下は毎日その所斎を訪れるように なりました。 今日あったことを報告し、また車と声を かけて部屋を出る。 明日も頑張るわね。 そう言って1日を始める。 離れている時は毎日電話をしていた2人。 その日家は形を変えて今も続いています。 岩下はこう語っています。 お夕飯の時がとっても寂しいです。 いつもとなりにいた人がいないから 58年間隣にいた人。その人はもういない 。 しかし岩田島は毎日夫の所斎を訪れます。 まるで58年が続いているかのように 201515年 秋下島は今日も田の細を訪れます。夕飯の時がとっても寂しいです。も隣にないから。 1960年神楽坂の旅館であった2人。 19614年マンぼを踊りながらこの人と 結婚すると確信した夜。 1967年全てを捨てて一緒に歩き始めた 日。 そして58年後の今 岩下廃骨に向かってこう語りかけます。 また来るわね。明日も頑張るわね。 58年間離れている時は毎日電話をしてい た2人。 その日家は今も続いています。 形は変わっても2人の絆は変わらない。 まるで58 年が続いているかのように下島さん、野弘さん、お 2 人の姿を懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。 あの時代を一緒に過ごしたご友人と 語り合うきっかけに、あるいはあの時代を 知らないお子さんやお孫さんに伝える きっかけにこの物語がなれれば幸いです。 本日も最後までご視聴いただきありがとう ございました。

女優・岩下志麻と映画監督・篠田正浩。
58年間連れ添った二人の夫婦愛の物語をお届けします。

1960年、神楽坂のオーディションで出会った19歳の岩下と28歳の篠田。
会社の猛反対を押し切って結婚し、「悪妻」と呼ばれながらも離れることなく歩み続けた二人。

2025年3月、篠田正浩が94歳で旅立ちました。
岩下志麻は夫の死に間に合わなかった…
それでも彼女は毎日、夫の書斎を訪れ、遺骨に語りかけています。
「また来るわね」「明日も頑張るわね」と。

なぜ二人は58年間、同じ方向を向いて歩き続けることができたのか。
その答えがこの動画にあります。

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岩下志麻さん・篠田正浩さんの作品で思い出に残っているものはありますか?
ぜひコメント欄で教えてください。

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【参考資料】
・NHKアーカイブス「あの人に会いたい」
・週刊文春「岩下志麻 独占インタビュー」
・キネマ旬報「篠田正浩監督 特集」
・朝日新聞「篠田正浩さん死去」(2025年3月)
・婦人公論「岩下志麻 58年の夫婦生活を語る」
・映画.com「篠田正浩監督 追悼特集」
・Wikipedia「岩下志麻」「篠田正浩」

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※この動画は公開されている情報を基に制作しています。
※ご遺族・関係者の方々に深く敬意を表します。