【松田聖子】「この子は売れないね!華がないんだよ!」屈辱と苦難にまみれたデビュー前夜 | 父親の反対と業界の低評価を覆して伝説へ上り詰めた昭和の歌姫

時代を超えて愛され続ける永のアイドル 松田聖しかしデビュー前に大手芸農事務所 の住から言われた言葉は厳しいものでした あいう子は折れないんだよタレントとして 花も感じられないしねそれでも信じ続けた 男がいますその男はレコード会社 プロデューサーの若松宗さんそれは 1978年一本のカセットテープから流れ てきた歌声から始まりましたチャンネル 登録高評価をお願いし ます赤いペンで福岡青島荻田かとレーベル 麺に書かれた1本のカセットテープ 1978年5月日本の音楽師に残る歌手の 物語はこのテープから始まりました福岡と は福岡県のこととはまの理そう松田聖子の 本名CBSニーと雑誌1が共同開催してい たミス1コンテスト後に松田セコを プロデュースしデビューさせたは松宗夫 さんはその仮称コンテスト用に集められた テープの山を1本ずつ再生し少し聞いては 早送りすることを繰り返していました九州 大会のカセットテープからスターの原石を 見つけようとカセットデッキに向き合って いたのです一声2声聞けば大体分かります 声が良くないなとか歌はうまい ないなと若松さんは当時を振り返ります そんな作業の中早送りの手が思わずとまっ たのですすごい声を見つけてしまったどこ までも続く南太平洋の青空と海の世界が 広がりましたまさに青いの世界でした彼女 が歌っていたのは桜田のヒット曲ぐれ ビーナスあるいある かなりどこか楽しい場所へと出かけてみ たくなるこの時点では彼女の顔すら知ら なかったという若松さん本当にこれだけ でしたその質感強さ色合いメッセージ性 それらが他の子たちとは全く違って聞こえ ました全身前例にショップを受けました 福岡県に住む16歳の歌声はどこまでも 清々しくのびのびとして力強かった明るさ とやかさとある種の知性を兼ね備えた唯一 の響きすごい声を見つけてしまったと直感 した若松さんでしたが車内では悪くはない けれど程度の反応しかなかったと言います 写真はごく普通の高校生という感じでした し歌声の持つ質を見抜ける人もいません でしたともかく声の主に会おうと若松さん は福岡に飛びました紺色のワンピース姿で お母さんと一緒でした清楚な雰囲気で写真 で見たよりいいなと印象そして実際に古の 声を聞き絶対に行けると確信しました しかしここからデビューまでには約2年も の歳月を要することとなります芸能会に 反対する父親南光するプロダクション探し つぐ難題を若松さんと聖子は2人三脚で 乗り越えていくのです若松宗夫さんは観光 会社から舞台制作会社CBSソニーの営業 担当という経歴を経てプロデューサーに 初めて制作を担当したのはキャンディーズ 9枚目のシングル春1番その後 キャンディーズの哀愁のシンフォニーや 優しい悪魔次郎の夢追い酒やドラマ熱中 時代の主題僕の先生はフィーバーなど ヒット曲を手がけましただけどどれも他の 人から引き継いだ仕事で自分の耳と目で1 から見つけて当てるという経験はありませ んでしたそんな中で出会った運命の声が あのカセットテープしかし古本人にその 自覚はなかったようです歌が好きで芸能会 に入りたいそれだけなんです自分の歌声が 際立った持ち味になっているとは彼女は 思っていなかった地方大会の出場者200 人分もの歌声を納めたカセットテープの山 の中から松田聖子を見つけ出したしかし 待っていたのはデビューに大反対する聖子 の父親です許すりは一切ありませんの 一点張りでダメと言ったらダメなんだと まで言われたこともありましたようやく 福岡での面会が実現したのですが翌日には やはり諦めてほしい今後は娘やかないにも 電話をしないでくれと連絡の密立たれて しまいましたミス1コンテストの九州地区 大会で優勝した聖子でしたが両親が反対し て全国大会を辞退することにその後ハト 市場に及ぶ説得の末ついに父親の承諾を 得ることとなります父親を動かしたのは他 でもない絶対に歌詞になりたいという聖子 の石でしたそこから若松さんは所属事務所 探しに本することとなりますまずは聖子に 一度CBSソニーの服を変業所まで行って もらい現地タフに写真撮影をしてもらう ところからスタートいわゆる プロモーション用の潜在写真の撮影です その写真と歌を込んだテープを持って 売り込みに行くのです最初には松さんが 資料を持って訪れたのは前の年の夏に一度 聖子自身も顔合わせをしていた プロダクションを技能リトル社長でした あれ以来特にはっきりした回答はもらえて いないままでしたが父親の許可が降りた ことも改めて報告しなければなりません しかしほどなくしてNGの連絡が届きまし た若松さんあいう子は折れないんだよ タレントとして花も感じられないしね しかしは松さんは聖子は単に小木社長が 考えるタレントの適正とは違うだけなのだ と前向きに捉えましたもしかしたら断り づらくて時間がかかってしまったのかも しれないまして原石の状態ではなかなか 判別がつかないのもりはないこちらは歌で 勝負するつもりでも芸能事務所としては 様々な可能性を考えて個性はもちろん総合 的なバランスを重要視する事務所な 抱えるタレントのカラーがあるのは自然な こと釣れない言葉に悪しつつも若松さんは すぐに切り替えて次の一手を考えました 平尾正明さんのボーカルスクールが博多に あるしばらくはそこに通って平尾さんに歌 のレッスンをしてもらうのがいいだろう なんと言っても平尾さんは作曲家として レコード対象やれの新人賞を獲得した方 しかもまさにこの時期大ヒット中だった 若松さんのプロデュース 僕の先生はフィーバーを曲した人こそ平尾 さんだったのです古のポテンシャルを見て もらうには十分すぎる存在でしたすると 案の定すぐにあの子は見込みねあるねとお 褒めの言葉をいだくことになりましたまだ 荒削りだが声が伸びやかだよ特に歌を自分 のものにする力は気がない若松さんすごい 子を見つけましたねやはり平尾さんほどの ヒットメーカーにはピンとくるものがある らしいしかもフランシスなど オールディーズを課題に出しても熱心に 勉強してきてまた琢に自分のものにして しまうというここで若松さんはピンとき ましたそういえば平尾さんは小柳瑠子ちり アンルイスにもヒット曲を提供して渡辺 プロダクションとも縁が深い方もしかし たら聖子と鍋プロは相性がいいのかもしれ ない平尾さんの言葉に自信を得た若松さん はすぐさま福岡にあった渡辺 プロダクション学がクイ服加工のスタフに 聖子の資料を送っている先々を考えると 聖子自身が気軽に顔を見せに行ける地元 福岡からアプローチした方が優位性がある と考えたからですするとその方も是非東京 のナプロ本部に資料を送ってみたいと言い ます早速本社に連絡を取ってもらいトップ 4と有べき幹部スタッフに相談してくれ ましたしかしここでも色よい回答をもらう ことはできませんでした若松さん申し訳 ない本社がいい返事をしないんだよああ いう子は売れないって言うんだ地味だって 言ってね歌は歌は聞いてもらえたんですか しかしそれ以上はどうすることもできず 渡辺プロダクション幹部からの言葉とあっ ては引き下がるしかできませんでした聖子 の魅力は歌声にあるのに平尾さんの推薦が ありつつも思いが通じないことに苛立ち ながら若松さんはさらに次の プロダクションを探し始めますここで少し 当時の芸能シーンを思い起こしてみ ましょうあの頃アイドル歌手として火曜の 中心にいたのは間違いなく山口の萌でした 深みと限りのある日本的で湿度のある歌声 とルックスは70年代の人々の心を がっちりとつみ桃は間違いなくCBS ソニーの宝いや日本の宝でした歌やドラマ 映画でも活躍1978年春には プレイバック2がヒット のブレイクも迎えていました同じく 1978年春にはCBSソニー所属の キャンディーズが人気絶のマさん若松さん もプロデューサーとしての初仕事で キャンディーズのプロジェクトに参画し 彼女たちは4年半の活動期間中に吉田郎の 楽曲を歌うなど音楽的な試みも多数残し バラエティ番組でも活躍歌って踊ってお 笑いもこなすアイドルの石を気いていまし たこの時期2人組アイドルピンクレディも 小学生や若者を中心に人気を吐しレコード はもちろんグッズも絶大な売上を記録派手 なパフォーマンスに加えて作家の悪優さと 作曲家の俊一さんが手がける楽曲で独創的 な世界を築き70年代の火曜界に大きな 足跡を記していますまた70年代はそれ までの芸能会における渡プロダクション 一社の独占的な勢いに対抗すべくテレビ のプロダクションが中となって オーディション企画もに行われていました 山口も萌えとピンクレディは日本テレビの 人気番組スター誕生の出身石野まそうです ホリプロタレントスカウトキャラバンで 見出された酒も愛らしい存在感と健康でお 茶の間やグラビア雑誌の人気者になりまし たしかし松田子は誰にも似ていませんでし た芸能を生く上で何より重要なの80年代 前夜とるべき時代の中で若松さんは松田 聖子の歌声に出会い強く引かれたのです 次々に新時代を切り開いていった聖子に 当初誰も振り向かなかったのは当然だった のかもしれないそう語る若松さんは聖子 から何度か手紙をもらっています3月14 日の化し員の手紙には1月にわざはざく まで来てもらったことへの感謝と2月に服 を営業で写真札を済ませたことが書かれて いました届いた写真はちゃんといい 仕上がりだったでしょうか時にかけている 様子で手紙を読み終えた若松さんは すぐさま聖子に電話をかけていたそうです 次の朝若松さんは気持ちを切り替えて アドレス帳をめくっていましたサン ミュージックの創業者であり社長の相澤 秀吉さんに連絡を取るためです業界でも 1番アットホームで面倒身のいいことで 知られる芸能事務所サンミュージック しかし相澤社長との面識は正直ほとんど なかったそうです当初は乗り気ではなかっ た相澤社長でしたが若松さんの熱いが相座 は社長を動かしました松田聖子の所属が 決まったのです若松さんは当時を振り返り 聖子は直感力に優れていて物覚えが抜群に 良くて人なっぽい性格なのでその場にも すぐ馴染む彼女が挨拶をするとあの子 なかなかいいでなんて声が勝って私は やっと分かってくれたかと嬉しかったもの ですミス1コンテストから2年もの月日が 流れていました1980年2月末聖子は ついにデビュー局である裸の季節の レコーディングに挑みましたその時の光景 は今も赤松さんの脳裏に焼きついていると 言いますブースに目をやるとマイクの空で こちらに向かってペコリと頭を下げた聖子 の方に涙が流れ落ちていくのが見えたん ですこれまでの人生で見た中でも最も忘れ がたい嬉し涙でした今回の動画は以上に なります続きはまた後日アップしますご 意見も感想を是非コメント欄までお寄せ ください最後までご視聴いただき ありがとうございました

ご視聴いただきありがとうございます!
今回は、松田聖子がデビュー前夜に迎えた“2年間の苦難”についてのお話です。

当チャンネルは「世の中のニュース」「日本の真実」「海外の反応」をお届けするチャンネルです。
「ニッポンていいな」「ニッポンておもしろい」そんな風に感じていただければ幸いです。
ご意見・ご感想・ご指摘など、是非コメント欄にお寄せください。
高評価やチャンネル登録も大いに励みになります!

この動画は特定の国家・民族・思想・人物を誹謗中傷したり、差別することを意図しておりません。またそれらを助長する内容ではありません。

動画のテーマ・内容に関しまして、メディアによる報道や新聞・ネット記事、SNSを情報源とし、客観的な「事実」「データ」に基づいて制作しております。できる限り正確な情報をもとに作成するように心がけておりますが、時に誤謬・瑕疵・不備などがあるかもしれません。その際は何卒ご容赦下さいますようお願いいたします。
また、情報の信ぴょう性・正確性に関しましては、必ず当チャンネル以外の情報ソースをご確認下さい。
情報は刻々と流動的に変化する場合がございますので、動画内容における情報の確度を保証するものではございません。

使用している素材は、フリー素材、または購入素材、もしくは引用であり、著作権を侵害する目的で動画は制作しておりません。
各権利所有者様や第三者に不利益のないよう、細心の注意を払って制作しておりますが、万が一、動画内容・著作権等に問題がある場合、ご本人様からコメント欄にご指摘いただけますと幸いです。迅速に対処、又は削除致します。

当チャンネルは、以下のガイドラインを遵守しております。
・文化庁
http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/index.html
・YouTube ガイドライン
https://www.youtube.com/intl/ja/about/policies/#community-guidelines

VOICE VOX:青山龍星 | 四国めたん | ちび式じい | 麒ヶ島宗麟 |

#松田聖子 #若松宗雄 #裸足の季節 #青い珊瑚礁 #昭和の歌姫