ゲスト:井谷俊介選手(パラ陸上)

[音楽] 番組アンバサダーの市川男十郎白園です。 このコーナーは毎回1人の障害者 アスリートチャレンジドアスリート 及び障害者アスリートを支える方に スポットを当てスポーツに対する取り組み 苦労喜びなどを伺います。 のスプリンター俊介です。 伊谷俊助選手。 1995年生まれ、三重県出身の30歳。 2016年大学3年生の時に事故で右膝 から下を切断し、義速生活になりました。 2018年から本格的に陸上競技を始め、 10月のアジアパ原ラ競技大会100mで 優勝。 19年世界パラ陸では日本人で初めて 100m決勝に進出しました。 2023年アジアパラ競技大会200mで アジア人初の22秒台をマークして優勝。 2024年200mでパリパラリンピック 出場を果たし7位に入勝しました。3年後 のロスパラリンピックでは初のメダルを 狙います。 高校時代は野球部だった伊谷選手。東海 学園大学西学後は幼い頃からの憧れだった カーレースを本格的に始めました。しかし カーレーサーとしてデビューする2週間前 、選手はオートバイの事故で右膝から下を 切断することに。主の先生に切断して義則 にした方がいいって言われた時は、え、 自分自身は早くですね、この現状から脱出 したいで、履けば何でもできるんだって いうのを聞いた時にすごい希望を感じてで 、前向きにですね、利息足の切断っていう のを受け入れることはできました。 その後も時速でカーレースを続けていた谷 選手。 一方で地元重に義則のランニングチームがあることを知り、月に 1度練習会に参加するようになりました。 その頃はですね、ジョギング用のこう小さな板を使って走ったんですが、初めてその板を履いた時にですね、自分の自身の足で走るその気持ちよさを感じたのがですね、すごく嬉しかったです。 大学卒業後に上況した伊谷選手。当時は義則でカーレサーと東京パラリンピック出場の 2刀流を目指していました。 大学4 年生の時にですね、カーレースの活動をしてる中でこうスポンサーを自分で探していたんですよね。で、僕自身がですね、そこでこうカーレースの夢そしてパラリンピックの夢を叶えたいんだっていう風に伝えたところですね。 すごい熱意に共感してくれて、プロのカー レーサーの脇坂11さん紹介していただい て、大学4年生の間脇坂さんの元でですね 、レース活動についてたくさんのことを 学ばさせてもらいながらですね、え、中田 トレーナーであったり就職先色々な部分を 環境を整えてもらいました。 陸場でも山形亮太選手、福島千里選手を 指導した中田県トレーナーの 元トレーニングに励みました。レースやっ てるとですね、ものすごくお金がかかる。 大学生のアルバイトだけでは巻かないきれ ないぐらいレースにかかっていました。 アルバイトを3つ駆け持ちとそういう状況 でしたね。 その後パラ陸城1本に絞った選手。 きっかけはプロのカーレーサー脇坂11 さんの一言でした。脇坂さんに出会ってで 、僕自身はレーサーとパラリンピックの夢 を叶えたい。で、ただ現実資金的な部分で 厳しい状況。陸場競技に関しては競業則が 高くて買えない。で、脇さんがその時に、 ま、月人鞄持ちみたいな形で大学4年生の 時ずっと、え、学ばさせてもらって、そこ から4年後にパラリンピックが迫ってる からパラリンピックにまず挑戦しようと。 それが終わってからカーレスをやったら どうだっていう風に挑戦を始めていきまし た。 2018年1 月から陸場指導者として有名な中田県レーナーの指導を受け、本格的に偽則で陸場を始めました。 まず僕自身あのスポーツって言っても ちゃんとやってたのは高校生まででそこ からはカーレースをやっていたのでこう体 のフィジカルだったり1からえフォーム だったり体の使い方そしてフィジカル筋力 のトレーニングをしてですね自分自身の レベルをどんどん上げさせてくれたって いうのが結果につがりました。純粋に やはりこの中田トレーダーの指導も的確で また分かりやすくて自分自身が全くゼロ からのスタートだったのでこう乾いた スポンジのように何でも吸収して成長に つなげていくことができました。 井谷選手の国際大会デビューは2018年 5月に行われたパラ陸場の北京グランプリ 。選手は100mで金メダルを獲得します 。 実力はないけど変な自信があったのかも しれないですね。やっぱり勝ちたいとか そういう気持ちのが強いだけの時でしたね 。 2018年10月インドネシアの ジャカルタで行われたアジアパラ競技大会 に出場した伊谷選手は100mで優勝。 初めて1年で金メダルを獲得し一躍注目さ れました。この時は金メダルを目指してで 、アジア記録の更新を目標にですね、試合 に望んでいました。予定通りって言うと あれですけど、ま、目標 達成できた大会でしたね。まだ2018年 の時はメダルが取れるとかそういうのは 自分であんまりまだ思ってなくて、メダル を取りたいっていう気持ちの方が強い頃 でしたね。で、周りの人もですね、すごい こう、うん、競技を始めてずっと応援して くれてる人たちもですね、すごいその成績 を喜んでくれて、こう、東京 パラリンピックが楽しみだねって言って くれるのがすごい嬉しかったですね。 2019年11月、ドバイで行われた世界 パラ陸。伊谷選手は日本人で初めて 100m決勝に進出。 東京パラリンピックの有力候補になりました。 この時は100も200 もですね、決勝に残るのを最低限の目標にで当時ですね、 4 位までがパラリンピック出場の内定の条件だったんですよね。なんで [音楽] 4位を望んでいました。 決勝は100mで8位、200mで7位。 目標の用意には届きませんでしたが、大きな収穫がありました。 自分身世界のトップレベルの選手たちと走るのが初めての大会で自分自身がですね、今どの位置に世界でいるのか物差しとして、え、見ることができた大会になりました。それまではこうメダルを取りたいっていうところだったんですけど、なんて言うんですかね、手が届く位置にメダルが見えてる感覚をつめるような状態になりましたね。 2019 年の世界パラ陸場で活躍して東京パラリンピックの有力候補になった伊谷選手。しかしその後調子を崩し出場を逃しました。 世界選手権で結果を出したことによって ですね、すごいこう自信を持つのはいいん ですけれども、それがこう変に自分は 大丈夫だっていうこう甘さを産んでしまっ て、え、トレーナーであったり、また脇坂 さんからの意見とかっていうのをですね、 素直に聞けない、聞く耳を持たない状態に なってしまっていたのが成績不審につがっ たのかなと考えています。当時最後の先行 の大会で優勝した方の選手がリレーの代表 としてパラリンピックに出れますよって いう状態だったんですよね。で、僕自身 その最後の先行のレースで2位になって しまって、ま、その日試合から家に帰って もですね、もう寝れないぐらい心がですね 、ポカンとしてしまう状況で、で、自分 自身がですね、こう足を失った意味であっ たり否定的になってしまう状況が半年 ぐらい続きましたね。 練習に身が入らない日々が続いた伊谷選手 。音師から厳しい失席を受けたそうです。 中田トレーナーであったり、え、脇坂11 さんからですね、自分自身の夢って何だっ たんだ、何のために走ってきたんだお叱り を受けてですね。で、その時自分自身の夢 っていうのが東京パラリンピックだけに なってしまっていたなと。大会で成績が出 て世界選手権でも入勝してっていう風に なるとだんだんですね、こう自分の自己 実現のためだけにやっていて夢っていう ものを見失っていたなっていうのを気づい てパリのパラリンピックに出てですね、 みんなを喜ばせようとその夢に向かって再 出発していきました。 東京パラリンピック終了後。 先週を東京から大学時代に過ごした愛知に移し、 1 人でトレーニングを始めました。結局ですね、こうコロナの時も 1 人で会っていたんですけど、その時とはやっぱりこう心行きが変わるだけで競技の向き合い方も変わって、逆にこう 1 人で練習してることによって今走って自分が見つけた課題っていうのに対してですね、すごいこう考えながらでそのためにどうしたらいいのかなっていうのをこう 1 人だからこそ深く考えることができたなと思ってます。 [音楽] 改めて自分を見つめ直した結果、 2023年アジアパラ競技大会 200mでアジア人初の 22 秒台をマークして優勝。復活を遂げました。 気持ちの変化が1 番大きかったかなと思ってますね。 2022年愛知に戻った年にですね、夏7 月にですね、事故ベストを100mで3年 ぶりに更新したんですよね。その時にその 7月の大会でタイムを伸ばすことができ なかったらもう引退しようっていう風に 覚悟を決めて脅技に向き合ったんですよね 。で、その時にですね、そのレースで、え 、自己ベストを更新して、またその翌年も 100m、そしてアジア大会で200mの タイムを更新してっていうのはですね、 成績不審だった自分を脱出して、またこう 具向きに成長できたところでしたね。 2023年パラ競技大会200mの優勝で 調子を取り戻した選手。 パリパラリンピック出場が内定した時の心境は 現実的にですね、30% ぐらいの可能性かなっていう風にこう望みは薄い状態でした。喜びが溢れるってよりも本当にこうほっとして良かったっていう思いの方が強かったですね。 パリ大会では出場目を 200m1本に絞りました。 最初はですね、僕自身100mも出場し たかったんですけれども、1本にした方が ですね、体の疲労度も違いますし、決勝 進出、また入勝の確率で考えた時に 200mの方が確率が高いのでメダルを 目指して200mに絞るっていう風に決断 しました。 男子200予選で初めて立った パラリンピックの舞台。決勝進出を最低の 目標に、え、メダルを取 るっていうのをですね、え、目指して挑み ました。やはりスタジアム満員で僕が走っ た時はですね、6万人がもうチケット完売 の状態ですごい大感性で、え、今まで経験 したことないような雰囲気を感じることが できました。 ところが谷選手はこの時速をしている右足 太もを痛めていました。 万全ではない状態でんだ子 200m選手はなんとか決勝進出を決めました。 ゴールした瞬間はですね、あの着順では決勝に残れなかったので次の組のレースが終わるのを待っていました。 で、こう次の組がですね、走り終わって タイムがですね、あの、電光掲示板に出て いくんですけど、あの時本当にこう4着が 出て、5着が出てってしてく時にすごい もうドキドキしながら待っててパンって出 た時に自分が決勝に進めたってのが分かっ た瞬間、もうすごい喜びが爆発して自分 自身ですね、もうその瞬間やったという 喜びが溢えましたね。 男子200m決勝。結果は 7位優勝でした。 ま、現状ですね、え、怪我が多かったシーズンでうまく調整してまずここまで来れただけでも合格かなっていう風に思えるレースでしたね。 [音楽] 自分自身ですね、メダルを取ってこう たくさんの人を喜ばせたいと思っていて、 やはりそのメダルが取れなかったっていう 悔しさが大きかったんですけれども、いざ ですね、え、結果を報告すると応援して くれてた人たち、みんなが決勝の舞台を 走ったことを喜んでくれて、それを見た時 にですね、こうメダルには手が届かなかっ た。でもたくさんの人を喜ばせるっていう 夢を叶えることができたなという風に達成 感を感じることができました。秋坂さんも 中田トレーナーもですね、非常に喜んで くれて、また2人のその顔を見た時に本当 にですね、僕自身も嬉しい気持ち、そして 感謝の思いがですね、え、深く大きくなり ました。で、僕自身がこう夢に挑戦したく てもできなかったそんな時にですね、手を 差し伸べてくれた2人だったので、本当に 2人がいなければ挑戦もできなかったし、 再出発することもできなかった。本当に 自分の人生にとって大きな存在の2人でし た。 選手には競技人生の励みになっている曲があります。 レックス&ラナの明るい部屋です。パリーパラリンピックが終わってからですね、この曲を聞くようになってですね、すごい自分自身に重ねて聞くようになりました。で、僕自身ですね、足を失った時っていうのは本当に何もかもがない状態になって自分の元気も笑顔もそして家族や友人たちの笑顔もなくなった。 でもそこからですね、夢に挑戦して、 そしてパリが終わってですね、みんなが 笑顔になってくれて、そして自分自身も ですね、利息であること、そして悲しかっ た自分っていうのが消えてですね、なんか こう、あの時何もなかったものがですね、 今ではこんなにも自分そして周りの人が 笑顔になってるんだって思うとですね、 すごいこの曲が心に染みました。 3 年後のロスパラリンピックに向け伊谷選手は 1人でトレーニングを続けています。 変わらず基本的には練習は 1 人でやりながらで、また週に何度かとか、え、月に大体 2回か3 回は中田トレナーの元に行って練習をして、で、普段は 1 人やりながらリモートで中田トレナーとやっております。来年今住んでいる愛知県でアジア大会が開催されます。え、それがですね、最大の目標です。 みんな応援に行くよって言ってくれてて、非常に楽しみな大会です。 伊谷選手が現在所属している SMBC 日光証券には多くのパラースリートが在籍しており、いい刺激になっています。 こうトップレベルでやってる選手もいるので、非常にですね、こうアスリートとして考えが似てたり、またこう全く違う視点を持ってる選手もいるので非常に勉強になりますね。 月に1度ですね、月例会と言ってですね、 各選手が報告する場があってみんなと交流 するんですけど、直接的にですね、非常あ 、深く関わってるのはですね、あの アルペンスキーの三沢選手ですね。三沢 選手とはですね、日頃から連絡取ったり 電話したりで一緒に食事に行ったり りっていう風にですね、普段から交流させ てもらってます。 選手はスポーツ容疑の板で固めのタイプを 使っているそうです。ま、皆さんが硬いっ ていうのはですね、あの、想像してる、 こう、バネのビヨンビヨン感がなくて硬 いって言うんですけど、僕自身の板は、え 、硬さで言うとどちらかというと柔らかめ の方の板を使っていて、それをどう 取り付けて、どういう角度でけるかっての が非常に重要で、僕自身はですね、 なるべくつ先の方を前に出してしっかり たんだ、そのたみを最後体の動きがこう股 関節が伸びて前に重心移動する時に しっかりバネが弾むっていうのを タイミングをうまく合 いうのを求めてですね、偽則を調整しています。 伊谷選手にパラ陸場の魅力を伺いました。 パラ陸場、ま、陸場競技自体がですね、非常にこう分かりやすいスポーツで、で、そこにですね、さらにこう息速を使ったり、義種を使ったり、車椅スを使ったりっていう、こういろんなですね、パランダと選手がいて、選手それぞれろんな工夫をして競技をやっている、そういう部分を見ていただけると非常に面白いのかなと思います。

2025年10月6日(月)〜10日(金)は「義足のスプリンター」井谷俊介(いたに・しゅんすけ)選手が登場しました。

1995年生まれ、三重県出身の30歳。2016年、大学3年生のときに事故で右ヒザから下を失い、義足生活になりました。2018年から本格的に義足で陸上競技を始め、10月にアジアパラ競技大会の100mで優勝。2019年の世界パラ陸上では日本人で初めて100m決勝に進出しました。
2023年、アジアパラ競技大会・200mでアジア人初の22秒台をマークして優勝。2024年、200mでパリパラリンピック出場を果たし、7位に入賞しました。3年後のロスパラリンピックでは、初のメダルを狙います。

パラ陸上との出逢い、子どもの頃から憧れていたカーレースとパラ陸上の二刀流に挑戦した理由と、陸上に絞った理由、国際大会で次々と目覚ましい結果を出せた理由、東京パラリンピック出場を逃して失意にくれた後、パリパラリンピック出場をつかみ取るまでの軌跡、パリでの戦いと次回ロス大会への抱負など、井谷選手にいろいろとお話を伺いました。