吉永小百合ー映画と人生/エピソード集/主な出演作/長編動画/シネマプロムナード 」 クラシック映画チャンネル

[音楽] マプ 今回は永遠のスター女優さゆりの映画と人生及び数々のエピソードについてお話します。 [音楽] [音楽] デビューと日黄金機の歩み吉さゆり本名 岡田さゆりは1957年に小学5年生で ラジオドラマ赤堂鈴之助に出演して芸能会 デビューしました。兄大法学部卒業の父親 とピアノ教師の母親を持ち、3姉妹の事女 として東京の渋谷区で生まれた吉永はお嬢 さん育ちで何ひつ不自由ない人生を送って きたと思われがちですが、小役から芸能界 で働いたのは実は一家の家計を支える必要 があったためでした。幼い頃本当に家に1 粒のお米もない日がありましたと彼女は 苦しかった少女時代を振り返ります。吉団 子供の頃役を辞めた父が出版事業に乗り出し失敗して家の中は火の車でした。借金取りやし祭の税務所員が家の中に入ってきて幼い私はなんて失礼な人たちなのだろう。よし私がお父様を助けてようときを持って構まえた記憶もあります。ゆり新聞 [音楽] [音楽] 配達すると母に迫ってなめられたことも あります。 ラジオに出るようになってから食卓のおかずが少し増えたのがとても嬉しかったのを覚えています。 1959 年には築映画朝を呼ぶ口笛で映画初出演を果たし、 1960 年に高校新学と同時に日括と専属契約を結びます。同年のガラスの中の少女で映画初演を務め翌 [音楽] 1961年には16 本もの映画に出演するという脅異的な活躍を見せました。 1962年17歳の時に主演した キューポラのある町が高い評価を受け、第 13回ブルーリボン賞で主演所女優勝を 受賞します。同年の日映画赤いつぼみと 白い花の主題家、寒い朝で歌手デビューも 果たし、この曲は50万枚を超えるヒット となりました。さらに橋幸夫との デュエット曲いつでも夢は300万枚の大 ヒットを記録し、国民的な相性となりまし た。映画と音楽の双方で成功を納めた吉永 は1960年代を代表する純心成準な ヒロインとして不動の地位を築づきます。 日括専属女優としての吉永は浜田三夫との コンビで数多くの青春純愛映画に出演し1 台ブームを巻き起こしました。当時 アクション路線が主流だった日活において 吉永浜田主演の青春映画は新たなファンを 開拓し、彼女のブロマイドは店頭から 消えるほど飛ぶように売れたと言います。 吉さゆり、松原千恵子、泉子の3人は日活 3人娘と呼ばれ、麻子や川泉と共に日 パールラインを形成しました。映画コムに よれば吉永さゆさんは日活との専属契約が 終了する68年までの約9年間で76作品 に出演したとされています。また銀幕 デビュー65周年記念サイト等でも 1968年日専属契約が終了するまでの9 年間で76作品に出演と再確認されてい ます。それにしても凄まじい出演本数です ね。多忙な俳優活動の中でも学業への意欲 を見せたのも吉永の特徴です。高校は中滞 しましたが自ら勉強を続けて大学入学資格 検定に挑戦し1965年に早稲田大学第2 文学部に入学しました。1969年に 早稲田大学を自績の成績で卒業しており、 女優業と学業を両立させた努力は特質に値 ます。 年に日との専属契約が満了した後も吉永は 各者の作品に出演して活躍を続けました。 例えば小築の人気シリーズ男は辛いでは第 9作柴又や第13作虎次次郎小康連れに ゲスト出演し東方では伊幸原作の対策青春 のもに出演しています。こうした輝かしい キャリアにより吉さゆりは同世代の男性を 中心に圧倒的な人気を誇り、その熱狂的 ファンたちは自らを左リストと称しました 。清楚で気品ある佇まいと確かな演技で 吉永はまさに昭和を代表する永遠の ヒロインとして人々の記憶に刻まれてい ます。 夢千日記成熟機の代表作とその反響。 1970年代後半から1980 年代初島にかけて吉永さゆりは映画からテレビドラマへ活動の重心を移す時期がありました。その中で彼女のキャリアの天気となったのが夢ち日記です。 [音楽] 夢千日記は脚本化坂明のオリジナル脚本に よる物語で原爆の放射能の影響で嫁名 わずかと宣告された芸者長い夢千の人生を 描いた作品です。1981年にNHKの ドラマとしてスタートし、1984年まで 続編も制作された本作で吉川主人公夢を 演じました。985年には自身もゆかりの 深い浦山桐リオ監督の手により映画版夢千 日記が制作公開されます。裏山監督は吉永 の出世作ラのある町を手掛けた人物でも ありく夢中日記が監督の遺作となりました 。吉永にとっても20年ぶりの裏山作品で あり波々ならぬ思いで望んだ役柄でした。 夢千は被爆により病を抱えた発の芸者と いう難しい役所でしたが、吉永は40歳と は思えぬカレンサと成熟した演技の両面で この役に命を吹き込みました。嫁名半年と 宣告された夢が原爆の記憶に苦しむシーン では見るものの息を飲むような聞き迫る 演技を見せています。それまで成派の イメージが強かった吉永が死と隣合わせの 悲劇的な運命や抑えきれない常年を表現し きった本作は吉永さ左の代表作の1つと 高く評価されました。吉永自身も夢千と いう役を3度に渡り演じ切ったことで女優 として大きな手応えを得たと言います。 制作当時のエピソードとして終盤の夢千の 臨住シーンの演技に特に神血を注いだと 言われます。監督の裏山から死に行く瞬間 の苦しみをリアルに表現して欲しいと要望 され、戸惑いながらも役柄の痛みや無念を 対現しました。その渾心の演技は観客の胸 を打ち吉にとっても忘れられないシーンに なったようです。結果として夢中日記は 吉永さ左の女優人生における1つの頂点と なり以降の作品選びや演技に深みを与える 景気となりました。平和への祈りと朗読 活動。夢千日記で原爆症のヒロインを演じ た経験や若い頃に出演した広島を題在にし た映画、愛と死の記録などの影響から平和 への強い思いを胸に抱くようになります。 広島や長崎を始め日本各地で原爆士の朗読 を続け30年以上に渡り平和への メッセージを発信し続けています。吉長の 静かで力強い朗読は多くの徴収の心に響き ました。朗読会は海外でも行われ、 2010年代にはイギリス オックスフォード大学やカナダ バンクーバーでも英語で原爆士を読み上げ 国境を超えて平和への祈りを伝えています 。朝日新聞のインタビューでも世界の若者 に希望を感じたと語っています。東日本大 震災が起きた2011年以降朗読する市に 福島の被災者が書いた死も加えるように なりました。原爆死と同じく故郷を奪われ た人々の苦しみや願いを言葉にした死を 紹介することで戦争のみならず災害や原発 事故の痛みにも寄り添おうとしているの です。実際震災当時小学5年生だった少年 が綴った放射線の正体を知りたいという死 を朗読し、その少年が成長して放射線技師 を目指しているエピソードを紹介するなど 被災地の人々の思いを広く伝えています。 音楽家坂本龍一が立ち上げた東北ユス オーケストラの演奏会に参加して活動を 支援し、被災地の子供たちと交流するなど 復興支援にも積極的に関わっています。 吉永は被害に合われた方をいつまでも支え 続けることが大切。日本中が忘れないで いることが大事ですと述べており、その 言葉通り10年経っても被災者との交流を 絶さず支援を続けています。このように 女優という枠を超えて平和をする一市民と しての活動に力を注いできました。原爆の 朗読CDを制作発売し、自ら編集した自動 向けの絵本を出版するなど伝え方も多に 渡っています。こうした平和活動に対し 被爆者や被災地からは感謝の声が寄せられ 、吉永自身もこれからもできる限り伝え 続けたいと誓っています。 戦後生まれの彼女の歩みはそのまま戦後日本の平和への歩みと重なり合い、吉永は今や平和の象徴として尊敬を集める存在となっています。 衛エ失筆と出版活動綴られた思い。 女優歌詞として活躍する一方で吉永はエッセとしても多くの作品を発表してきました。その文章からは彼女の人生感や内面の思いを買いまみることができます。 若くしてスタートなった吉永ですが、早く も1969年にはS州心の日記を江談者 から出版し、自身の心のうちを綴ってい ます。さらに1988年には事電夢一図を 上司し、破乱に満ちた反省を振り返りまし た。夢一図というタイトルには夢に向かっ てひ向きに生きてきた彼女の行きざが業縮 されており、その中では女優業への情熱や 家族、結婚についても率直に語られてい ます。吉永のエッセには映画や旅、日常 生活について綴ったものも多くあります。 1999年観光の吉永さ左物語や2003 年の気候旅に夢見るでは日本各地や海外を 訪れた際の体験を温かな必で記し、旅先で 感じたことや出会った人々からの学びを 紹介しています。また家庭ガ法に連載した フォトエッセをまとめた夢の続きでは ゆかりの地を巡りながら幼少期の思い出や 新人時代のエピソードを懐かしんで綴って います。美しい写真と共に語られる 思い出話からは純身だった少女時代から大 女優となるまでの奇跡とその背後にある 家族愛や人生哲学が伝わってきます。映画 への深い愛情も彼女の著作からは明らか です。18年に出版された私が愛した映画 たちでは自身が出演した作品はもちろん 観客として愛行する国内外の映画について 語り、その魅力や制作費は自身の演技議論 を披露しています。さらに前日したように 平和への思いを伝える本の編集にも携わっ ています。自動向けとして編集した広島の 風長崎の命では原爆の実装を子供たちにも 分かりやすく伝えるため死に全て振りがを ふし大きめの勝じや差し絵を多様する工夫 をこらしました。戦争を体験せず生まれた 彼女だからこそ過去の悲劇を忘れず伝える ことの大切さを繰り返し訴えており同時に 今を精一杯に生きることの尊さも語ってい ます。 執筆や出版活動を通じて女優という枠を超えた表現者吉永りの一面を知ることができその言葉の橋からは飾らない人柄やかっこたる信念が感じられます。 [音楽] テレビ出演と音楽活動映画女優として体制した吉ゆりですがその活躍の場はテレビや音楽にも広がっています。 [音楽] まずテレビドラマでは映画界が車用化した 1970年代にNHK大画ドラマ風と雲と 虹とやも残ったなどに出演し、お茶の間に もその演技を届けました。一方、歌詞とし ての吉永さゆりも見逃せません。1962 年のデビュー局、寒い朝、そして橋の デュエット。いつでも夢を大ヒットにより 一躍トップ歌手の仲間入りを果たした彼女 は1962年の紅白に初出場して寒い朝を 歌っていこう。1966年まで5年連続で 赤組歌として舞台に立っています。映画の 主題家や挿入を歌うことも多く、シングル やアルアルバムも多数リリースしました。 優しい歌声と清楚なイメージは歌詞としても指示され、例えば伊豆の踊り子や愛と死を見つめてといった主演映画にんだ曲も好評を拍しましたに七びの白 [音楽] [音楽] また意外なことに 1970 年の大阪万博局、世界の国からこんにちはった歌手の 1 人でもあり、その音源は高年に再評価されています。近年のメディア出演としては女優業の傍としてレギュラー番組を担当していることが特質されます。 TBSラジオのこんばんは。吉永さゆです はパーソナリティを務めるトーク番組で 彼女自身の言葉で映画や旅の話日々感じた ことなどを語りゲストとの対談も行われて います。テレビの華やかな世界とはまた 異なり落ち着いたトーンで語りかける吉永 の声からは人柄のぬくもりが感じられると 好評を得ました。さらに注目すべきテレビ 出演として吉川NHKのトーク番組 スタジオパークからこんにちはや哲ツ子の 部屋などにゲスト出演した際貴重な プライベートエピソードを披露しています 。1999年にスタジオパークに出演した 際には15歳で映画天使が俺を追いかける に出演した時共演のミき平さんとのキス シーンが自身のファーストキスだったと 明かし視聴者を驚かせました。当時の緊張 した心境を笑顔で語る吉長の姿に女優とし てのプロ意識と可愛らしい素顔の両方が 買いまみえました。このように吉長さゆり は映画だけでなくテレビや音楽ラジオと いった様々な媒体で活躍しその都度新たな 魅力を発信し続けています。歌詞としての ヒット曲や紅白での晴れ姿、ラジオで聞か せる穏やかな語り口など多彩な顔を持つ 彼女ですが、根底にあるのは人々に 寄り添い楽しみや感動を届けたいという 紳摯な姿勢です。それがゆえにどの分野に おいても長年に渡り愛される存在であり 続けているのでしょう。人柄が買間見える エピソード集。 国民的女優として知られる吉さゆりですが 、その内面には努力家としての顔や意外な 一面も秘められています。ここでは彼女の 品格や努力、そしてユーモアや素朴さが 伺えるエピソードをいくつかご紹介します 。命がけの演技とプロ根性。新人時代の 1960年15歳だった吉川映画ガラスの 中の少女で同級生の男女が新住するラスト シーンに挑みました。その撮影では10月 の冷たい湖に身を横える必要がありました が大丈夫ですと弱ね1つはかずにカメラが 回るとま瞬きもせず演じ切りました。その 結果カットがかかった後もしばらく浮かん でこないためスタッフが慌てたところ実は 必死に我慢するあまり水中で失進していた のです。またキュポラのある街撮影直前 黒い傷跡のブルース撮影中に猛烈な複通で 病院に駆け込んだら中水円と診断されまし た。すぐに手術を受けますが、そのわずか 1週間後に撮影現場に復帰したと本人が 語っています。同じ日活の同僚で同世代の 女優松原千恵子は若き日の吉永について 撮影の合間でもお部屋でいつもお勉強をし ていましたと証言しています。多忙な撮影 スケジュールの中で学校の勉強道具を 持ち込み、休憩時間に机に向かう吉永の姿 は周囲から見ると驚きだったようです。 また松原が胃井の調子を崩した際には吉永が病院まで突き添ってくれたこともあったと言いまるで姉のように面倒を見てくれたと語っています。意外な菅顔無邪気で豪快。 [音楽] 清楚なお嬢様のイメージが強い吉永ですが実はチめっけのある一面も日活時代の友人である女優森く子は撮影書の部屋で枕投げをしたり相撲までしました。さゆりちゃんは相撲も負けないくらいすごく強かったんですと笑い混じりに明かしています。 [音楽] [音楽] 初恋い 浜田三光とは共演作が日活時代に実に44 本にも登り1年間で会わない日が数日しか ないというくらい顔を合わせていましたが 男性という意識はなかったと言います。 初恋いは小学校5年生の時に転校してきた 男の子でした。その子にみんなの前で まるまる君好きよと言ってしまい、ただ それだけの解放的な初恋いでした。 とは中学校に入ってサッカー部を指導する先生に憧れてキャンプファイヤーを一緒にやった時にドキドキしたのを覚えていますと年吉永は恥ずかしそうに語っています。結婚費は [音楽] [音楽] 声が出なくて苦しんでいた時期にたまたま付き合っていた人ともうこれは私は結婚するしかないということで結婚したんです。 とにかくすごくびれてどうにもならない 時期に励まし続けてくれたんです。最初に あったのは19歳の時です。彼は15歳 年上で親からは結婚を反対されました。 初め彼は恋愛で良いのではい感じだったん ですけど、私の方からどうしても結婚して 自分の名前を変えたいという思いがあった んです。お仕掛け尿房なんです。 さゆりちゃん子供作りなさいよ。ややご シップ的な話題になりますが、負妻に子供 がなかった理由について私が愛した映画 たちのインタビューから引用します。後に カーべ、母と暮らせば、そして北の桜森と いろんな母親をやることになりましたが、 私は現実には母親ではないんです。加藤時 さんにお子さんが生まれた時、さゆり ちゃんも子供を作りなさいよと言われた ことがあるんですけど、その頃は自分は 母親になる資格がないのではないかと思っ ていたんです。両親とのことはまだ自分で 総括できてないのですが、私は母親と非常 に特殊な親子関係だったと感じていたので 、自分が子供を持った時にどういう母親に なるかがちょっと怖かったということも あります。やっぱりどこかで完璧な母親に なりたいと思っていたから、もし子供が 自分の思うような子供になってくれなかっ た時にはどうしようか、いろんなことに 自信がなかったんです。でも作品の中では いつも子供たちに恵まれて助かりました。 好きな映画スター。 彼女のお気に入りの映画スターはバートランカスターです。特に空港を演じた大空港の他に彼が出演した許されざるもの。ここよりとアに山猫家族の肖像 [音楽] 1900 年をベスト映画にあげています。女優ではビビアンリーその主演作風と共にぬ哀愁という名の電車の [音楽] 3 本は同じ女優とは思えないの演技だったと称えています。 ちなみに生まれて初めて見た映画は小学校 に上がった頃、ディズニーの アニメーション映画バビでした。彼女は母 に手を引かれ、未知の世界にそっと入る ように映画館の扉を開けたのでした。 そしてあまりの迫力、強烈な赤い炎に怯え 、おいおいと声を上げて泣き出してしまっ たと語っています。さらに記憶の中でいつ もあるのは夏休みに学校の皇帝で見た二重 の瞳でした。 子供たちと大石先生の絆に心を奪われ、大好きな同様が全編に流れる中で戦争の犠牲になっていく登場人物たちに胸を痛めたのです。映画に強い憧れを抱いたのはこの時だったと言います。 [音楽] [音楽] 素敵な贈り物。 吉川は仕事柄多くのプレゼントを受け取っています。ここではその中で最も思い出深い贈り物を 2点ほどご紹介します。 青い山脈撮影中のある朝のこと、ロケバス の隣に座った先輩女優の足川泉から声を かけられます。さゆりちゃん、朝もう5分 早く起きなさい。お化粧がムらよ。足川は じっと吉長の顔を覗き込み、そう耳元で 支いたのです。はい。すみません。マリア 様のように憧れていた足川の言葉は誰より も答えました。実は足川は無敵が俺を呼ん でいるるって共演した時に吉長を自宅に 呼んで大切な歯白来らい物の道乱を分けて くれていたのでした。女優にとって1番 大切なことはメイクアップですよ。その 翌日から吉永は30分早く起きて丁寧に メイクするようになったということです。 もう1つはうち千代からのものです。自身 の原作ご飯の撮影現場に激例に来たうは 自分でデザインした美しい桜門の着物を着 ていました。それに刺激されて吉永も子供 の頃から好きだった桜柄の着物を季節を 問わず着るようになります。うのベージュ の祝いの席でプレゼントされたのは宇野 自身の字で書かれたの連でした。今あなた の上に現れている能力は兵山の一角。真の 能力は水中深く深く隠されている。それは 今でも吉永の自宅にかかっていて片分けに もらった桜バの着物と共に生きる勇気を 与えてくれる宝物となりました。 常に謙虚で学び続ける姿勢。 現在もなお現役で輝き続ける吉永格者ぶりでも知られます。 2012年女優55 周年を記念して開催された吉永一勝生徒でという展覧会のタイトルにもある通り彼女は常に一俳優として皆さんから教えてもらう立場で痛い。習い事でも遊び事でもこれからも成長していきたいですと語っています。 [音楽] デビュー当時からダイスターでありながら奢ることなく周囲への感謝と学ぶ姿勢を忘れない。この品格こそが吉永りという人物を象徴していると言えるでしょう。 [音楽] 趣味に見る意外な一面。 実はスポーツ感染好きとしても知られています。特にプロ野球では西武ライオンズの熱烈なファンでかつて西武球場現メットライフドームで行われた [音楽] 1994 年の開幕戦では支宮式の退役もめました。 1987年の日本シリーズ第6 戦ではテレビ中継に特別ゲストとして出演し、解説を務めたこともありました。野球団義に花を咲かせる吉永の姿は多くのファンにとって新鮮な驚きでした。 野坂ゆきさんとご一緒にラグビー完成した時のこと。野坂さんから体を温めるためにウイスキーを進められ、私はグイグイとストレートで飲んでしまいました。 [音楽] すると思っても見ない言葉が自分の口から 出てくるのです。ツっコめ、行け。 タックル、タックル。何やってるの?あ、 バカ。野坂さんはあまりのことに驚いて私 を眺めました。お酒の勢いもあって、 小さい頃男の子と子で遊び回っていた やんちゃな私が蘇したのです。野坂さんは 静かにでも気持ちを込めて感染しておられ ました。 ユモアと容力。 その穏やかなユーモアと包容力も忘れてはなりません。例えば吉永の楽曲奈良の春が明やがバラエティ番組でギャグに用いたところ。サンマさんのおかげで話題になって感謝していますと笑顔でコメントし笑い話として受け止める器の大きさを見せました。 [音楽] 哲子の部屋に出演した際には黒柳から吉永さんって本当にお酒弱いんですってと聞かれ。ええ、一口で真っ赤になりますと照れ笑いするなど茶めっけたっぷりに応じています。 [音楽] 以上のようなエピソードから浮かび上がるのは常に努力を惜しまず周囲への聞配りを忘れずそして自分自身も人生を楽しむことを知っている吉永の人間像です。 [音楽] スクリーンに移る成純で毛高かいヒロイン 像をそのままに現実の彼女もまた品格と 優しさに満ちた女性ですが一方で 親しみやすくユーモのセンスも 持ち合わせています。そのギャップが多く の人に愛される理由の1つかもしれません 。 主な出演策フィルモグラフィー 様々な資料を総合すると吉永の純粋な劇場 作品出演本数は124本とされています。 1主演としてクレジットされている作品が 115本程度であり、これは歴代日本女優 の中で最高とされています。 ガラスの中の少女 本作で裕な家庭に育ちながら恋心に揺れる 15歳の少女を活臨とした佇まいで演じ ました。これが吉永の映画初主演作となり ました。 ポラのある町 埼玉の芋工場の町に生きる少女純社会の荒波と家庭の困難に直面しながらも前を向いて歩く彼女に当時の観客は熱い拍手を送った吉永さゆりという存在が庶民の心と出会った瞬間でした。以下吉永の言葉 [音楽] 出演が決まった後監督の浦山さんと食堂でお会いしました。そん時貧乏についてよく考えてご覧と言われたんです。 [音楽] 私も幼い頃から貧乏を経験してきました から、即座に私の家も貧乏です。貧乏は よく知っています。私自信がありますと 答えたら村山さんは君のところは山手の 貧乏だろう。下町の貧乏っていうのがある んだとおっしゃったんです。下町ちの貧乏 ってどういうんだろうって思いました。 貧乏は全部同じだと思っていたんです。で も映画を取り始める前に役について考えて みろって言われたのは初めてでしたから 一生懸命考えました。結局山さんの言葉が 分かったのは撮影が始まってからです。 その頃はまだ演技プランなんて考えたこと はなかったのですが監督の言葉はずっと頭 の中にありました。 そして実際に工場にのけに行ったりしているうちにだんだん浦山さんの言いたかったことが分かるようになった気がしました。 さらに夢一図から引用します。 川口の駅前で北朝鮮に帰っていく同級生のよえちゃんを順の私が見送るシーン。よしえちゃんのお父さんは朝鮮人。お母さんは日本人です。お母さんは日本に残ることになりました。 [音楽] [音楽] よしえちゃんとその弟3吉地に別れを 言おうとお母さんは駅に駆けつけます。で もよしえちゃんはとして母親を追い返して しまうのです。母ちゃん辛いだろうけど 我慢してとよしえちゃんを演じる鈴木 みつ子ちゃんの瞳からポロポロと涙が こぼれました。その別れはお芝居いでは なくまさに本物の別れのようでした。なぜ この人たちは離れ離れにならなくてはいけ ないのでしょうか?貧しすぎるからよ。吉 も3基地も私の中で相馬のように幼い頃の 光景が蘇ってきます。私とジュは1つに なり、胸の奥底から強い感動が突き上げて きました。いつしか私も泣いていました。 若い人 年上の教師に淡い思いを抱く少女。青春の 痛みと希望を文学の香りと共に繊細に演じ ました。憧れの大スター石原裕次郎との 本格的な共演でしたが、石原の要求は思い の他厳しくプロデューサーを通してもう 少し体当たりで演じて欲しいとの注文が出 ます。本作の稽古のような屈折した激しい 役柄は初めての経験でした。ある日撮影地 の長崎で共演の朝岡瑠り子と共に4人前の サラうどんをらげてしまった時のこと。 日活の厳しい撮影に耐えるには1に体力2 に食欲よ。 笑いながら言う朝岡のげない心遣いにようやく緊張が解けてラストシーンでは裕次郎に夢中で無ぶりつく演技ができたと言います。 [音楽] カットの声の後裕次郎さんを見上げるとさゆりちゃんお疲れ様。よく頑張ったねと優しく微笑んでくれました。ほっと緊張が緩み私も顔をくしゃくしにして笑いました。 伊豆の踊り子 旅芸人の少女と学生との短くはない恋川端安成の名作に吉永の右しさが重なり文芸の象徴的存在となりました。彼女が持つ気品と無垢の輝きが銀幕を優しく照らします。 [音楽] [音楽] 愛と死を見つめて 難病の恋人とった実話の分通集まこ甘えてばかりでごめんね。この一言に無数の観客が涙しました。 [音楽] 成派女優しての地位を不動のものとした一作です。 自分で言うの恥ずかしいんですけど、今回愛と死を見つめ手を DVD で見直して泣いてしまいました。年を重ねてわかる、感じることってあるんですね。お父さんやみ子さんの心情があの頃よりももっと分かるようになって辛くてまりませんでした。 大島み子さんという方の優しさと強さを 改めて感じましたし、お父さん役の竜地 さんの芝居にも感動しました。例えば私 巫女が手術で顔を大きく切り取らなければ ならないことを病院で相談した後で お父さんを大阪駅に送りに行くシーンが あります。列車に乗ったお父さんに私が手 を振るとお父さんも笑顔で手を振る。その 後列車が走り出して1人になったりさんは 手をさりげなく顔に持っていくんです。娘 に対する思いを全部そこで表現されるん です。セリフは全くないんですが、その 芝居がもう素晴らしくて、今回見直した時 もまたいやすごいなと関心しました。それ 以来りさんのようにセリフがなくてもたえ 背中だけでもいろんなことが表現できる ような俳優に究極的にはなりたいと思って いるんです。 さらに本書から引用します。 愛と死を見つめてでは忘れられない大切な思い出があります。映画が公開された後みち子さんのお家に止めていただいたんです。お母さんから今日 [音楽] 1 日みち子になってくださいと言われてお父さん、お母さんさんとお食事をしてみち子さんが生前来ていらしたを着てみ子さんのお部屋で寝ました。 そして次の日、西脇市内に流れる過去川の土手を妹さんと 2 人で歩きました。その時映画の中でも歌った西脇高校の効果を一緒に歌ったんです。本当に貴重な体験をさせていただきました。 [音楽] ああ、姫の塔。 沖縄仙末期学隊として同員された姫学トたちの悲劇を描きます。命のさと戦争の残酷さを静かに訴える感動の実話。 [音楽] この映画の撮影では凄まじいエピソードが あります。本作では危険な撮影も数多く あり、過酷な運命により短い障害を終える 少女たちが皆泣き出す中、ラストシーン。 団外の上で自血する演技の時に吉永は彼女 たちの心情を思いになってしまいました。 その結果主榴団の仕掛けのスイッチを 打ち合わせより早く押してしまい、方に 火傷を追ったのです。海に夕日が沈んで いく。急がなければ撮影ができなくなる。 ひ袋れした方に絆創膏を張り、その上に 道乱を熱く塗ってフラフラになりながら カメラの前に戻り自血シーンを取り終え ました。 本作や愛と死の記録、出演の後、吉長は 女優生活で初めてのスランプに陥ります。 年間10本はくだらなかった主演映画は だんだん減っていきました。吉長は言い ます。20歳を過ぎ、大人の女性を演じ なければならない時期が来たのに、私の 成長は止まってしまいました。実は苦しん でいたのは彼女だけではありませんでした 。60年代の後半の日本映画は深刻な観客 離れに直面していました。心身もに限界 だったのでしょう。ある日突然声が出なく なります。苦しい状況が続く中吉は1本の 大切な映画に出会います。それが山田洋ジ 監督。男は辛いよ。柴又でした。 男はついよ。 虎次郎が旅先で出会った看護師歌子吉永りに恋をするがまたもや叶わぬ恋に涙する愛の名作男は辛いよ虎次郎恋いれ [音楽] かつての心の恋人う歌再開した虎次郎が再びを焦わぬ思いに沈む切なさ漂う名変永は初めて男は辛い世に出演した時の印象を次のように話しています。 [音楽] 小船な撮影所の雰囲気が大好きでしたから 今回とても嬉しいお話だったのですが他の 作品とは違って男は辛いにはチームという か一家というかそういう感じが強くて虎屋 の皆さんが顔を揃えている中に1人ポンと ゲストで入っていくことに緊張感があり ました。それを柔らげてくれたのは山田 監督とあみさんでした。ロケが終わって 大船での撮影が始まった時、夜遅くまで テレビの仕事があったので翌日の撮影に 備えて近くの旅館に泊まったんです。そし たら監督から手紙が届いていてその中に 明日のセリフを覚えるんじゃなくて虎屋に 遊びに来るような気持ちでセットに入って ください。あ、そういうことなのねして 少し気が楽になりました。 青春のも 伊弘雪の壮大な物語のシリーズ第 1 作吉永が演じたのは炭鉱町で主人公イ吹慎介を女で [音楽] 1 つで育て上げた女性強く悲しくそして上の深い彼女の存在が慎介の人生の原点として深く刻まれていきます。 [音楽] [音楽] 同乱 吉川軍人宮城との比練に生きる元芸者のカルを静かに熱く演じました。 昭和の激道に翻弄される愛を象徴する役柄 。青春のもんでなぜ脱がなかったのかと いう批判にさらされ、映画への情熱を 失いかけていた時期に出演したのが高倉県 との共演策乱でした。これにより吉永は 蘇ります。 高倉県とはそれまであったこともなかった 吉永でしたが高倉の映画にかける姿勢に 驚かされます。サロ別のシーンはもう寒く て寒くてこえてしまって昼休みになると 一目さんにロケバスに駆け込んで段を取り ました。スタッフもああ、寒い寒いと言い ながら次々にロケバスに入ってきてみんな 昼ご飯の温かいカレーライスを食べ始めた んです。ところがバスの中から外を見ると 接言で1人ポツンと立ったままカレーを 食べている人がいるんです。えっと思っ たら高倉さんでした。 楽になりきっている状態で集中力を切らさないために温かいバスの中に入らないようにされていたんです。ああ、これはすごい人だと驚きました。 ロケの後撮影書でセット撮影になって高倉と 2 人だけの芝居を取った時のこと。宮城対高倉にお酒を注ごうとするシーン。吉永度に緊張して手が震えてしまいます。彼女はあんなに緊張したのは日活時代で中さんと初めてご一緒依頼でした。 [音楽] それくらい高倉さんの現場でのパワーが すごかったと語っています。さらに最後私 を許してくれという高倉の目に涙が滲むの を見て吉はすっかり我を忘れてカオルに なりきり高倉の手を取って私は幸せです。 あなたの妻になってとその手を両手で 包み込むようにして握りしめました。 そしてそのまま監督のカットの声も聞こえ ず泣き続けたのでした。 お。 本作で吉永が演じたのは芸者おはです。夫の心が他の女性に傾いてもなお輪として夫を待ち続ける古風で一図な女性像を演じています。抑えた感情表現の中に深い愛情と悲しみをにじません。内面の強さと切なさを漂わせた演技は性質でありながら胸を打ちます。 [音楽] [音楽] 天国の駅 実在の女子刑州をモデルにした林かよ演じました。 嫉妬と愛で2 人の男を殺し、愛が欲しかったと死刑代に望む凄まじい毒役を吉抑された表情で対現し、初の汚れ役に挑みました。 [音楽] 夢日記 被爆によって予名を縮めながらもひ向きに生きる芸者夢生きるとは何かを残すこと。そう語る彼女の微償に日本中が静かに涙しました。 [音楽] 本作では監督の裏山桐と吉との間で1つの セリフを巡って対立がありました。それは 夢が死のとこでピカが怖いというセリフ でした。それを浦山が社会派としての メッセージを込めてかピカが憎いに変えて 欲しいと希望しました。しかし吉長は何度 考えても憎いとは言えないと主張し結局 怖いとも憎いとも言わないで撮影すること になりました。それくらい彼女の中で夢 日記は大きな意味を持つ作品だったのです ね。が吉永の言葉。 どのように演じようとラストはやはり残酷でした。懸命に生きておられる被爆者の方たちにも辛い思いをさせてしまいました。 100本の映画で私は 100 人の女性を演じ、ああ、この役はやるのではなかったと後悔したことは [音楽] 1 度もありませんでした。しかし夢千の死だけは食いています。取り返しのつかないことをしてまったという思いが今でも胸の中でいい。 [音楽] しぐれの木 本作で吉が演じるは夫をなくし池鼻を教える家 20 年ぶりに再開したミ太の成熟した恋を静かに見つめうちに秘めた希望と悲しみをリンとした佇まいで表現しています。 [音楽] 長崎ブラブラブ 歌と上に生きる長崎丸山の芸者を熱園傷ついた少女を雪を導きながら無償の愛を貫く姿が胸を打ちます。 [音楽] 北の例年 北海道開拓に人生を捧げた女性の壮絶な人生、壮大な自然の中、信念を貫く女性像はまさに現実の吉永りそのものでした。 [音楽] カーベ 戦治中夫を奪われながらもこう育て続けた母の姿山田幼司監督と気づいた新たな母性の形がここにあります。 [音楽] のカナリアたち。 かつての教え子語たちと再開する元教師記憶と罪が交差する中で許しとテーマにした作です。 [音楽] 不思議なみの物語。 みの小さな喫茶店を営む女性。日々のさやかな奇跡を描く心温まる一作。吉永自身が企画した作品でもあります。 [音楽] 母と暮らせば 1948 年母は長崎の原爆で失った息子の亡霊と再開します。心温まる親子交流の中、深い悲しみと母としての強さ、優しさを静かに表現、戦後の記憶を美に紡ぐにみる演技が光ります。 [音楽] この作品を吉は出演119本目にして最も 難しい役にぶつかったと語っています。と いうのも本作は全編ほぼ1人芝居であり 膨大な量のセリフを覚える必要があった からです。しかも監督はセリフの言い方に こだわる山田幼児。さらに吉が演じる母親 は最後には痩せを衰えて死んでいく役です から元々45kmの体重をさらに2km 以上も減量して望みました。 一見穏やかな映画でもその舞台裏は本当に過酷だったのですね。 [音楽] こんにちは母さん。 山田幼子監督との再開作高齢女性の新しい生き方を明るく軽やかに演じ切りました年齢を重ねることの美しさ。その対現者吉永さゆりです。 [音楽] [音楽] 永遠のヒロインその歩みと姿勢。 デビューから60年以上に渡り、吉永さゆ は日本の映像文化の第1戦を走り続けてき ました。子供時代から添付の才能と努力に よってスターの座を駆け上がり、1960 年代の日黄金機には映画に音楽にと幅広い 人気を拍しました。天気となった夢千オ 日記で女優としての新境地を開き、以降は 成熟した演技で数々の名作映画を彩ってい ます。として女優業の傍原1人の市民とし て反戦半覚を訴え被爆者や被災者の思いを 代弁する朗読活動に励む姿は多くの日本人 の心に深いを与えました。いつまでも 変わらぬ美しさと気品を保ち永遠の間どん 永遠のヒロインと称えられる。しかし本人 はその称号に甘じることなく今なお新たな 挑戦を続けています。 最後に少し長くなりますが、女優さゆりの原点になったと思われる感動的なエピソードをご紹介してこの動画を終えようと思います。長時間のご視聴ありがとうございました。 [音楽] [音楽] 1 人ぼっちの旅者の寝台に横たわっていると列車の進んでいく音だけが妙に不気味に聞こえてきます。高校に入って初めての気末テストを終え、私はった [音楽] 1 人で上野初金沢行きの夜行列車に乗り込みました。 現在の旅と違って当時の列車は薄暗く15 歳の私には恐怖感しか湧いてきません。 それに目的地に着いた後のことも不安です 。みんなに会った時何と言えばいいの でしょう?不適に笑う男のロケーションは ノ半島で特くに始まり、みんなは私を待っ ているのです。遅れて参加することになっ たのは期末テストのせいですが、私のよう な新人俳優を温かく迎えてくれるでしょう か?おまけに地方ロケも私にとっては初 体験でした。知らない敷きたりも数多く あることでしょう。緊張感から私は なかなか寝つくことができませんでした。 予疑者は泥棒が多いから気をつけるんです よと心配していた母の言葉をふっと 思い出しました。私は再び起き上がり、 ボストンバックから財布を取り出して、 どこか安全な隠し場所はないかと見回し ました。3段ベッドの1番下で狭い2等 寝台の壁には網のような小物入れがあり、 小さな棚もある。でもとても財布を隠せる ような場所ではありません。どうしたら 良いか悩んだ末え。うん。ここならという 場所を見つけました。寝台のシーツを めくり、その下に財布を隠したのです。 自分の体が上に来るのだから、ここなら 絶対大丈夫。やがて列車はみ上を過ぎ、 深夜の長岡駅の案内をかかに耳にしながら 私は眠りに落ちていきました。午前7時、 車掌さんは約束通りに声をかけてくれまし た。富山を過ぎたら起こしてくださいと 寝坊の私が頼んでおいたのです。洗面書に 行って顔を洗い神を三つ編みに言って さっぱりとしました。窓の外を見るともう すっかり夏の日が上がって山波がくっきり と浮き上がっていました。本当に爽やかな 山々でした。昨夜の不安はいつの間にか 頑張るぞというか期待感のようなものに 変わっていました。 棚からボストンバッグを下ろし、荷物の 整理をしようとした時、私ははっ財布の ことを思い出し、シーツをめくってみまし た。ところがないのです。隠しておいた 大切な財布がないのです。寝台の下も バッグの中も枕の下も目を皿のようにして 探しました。でもダめでした。洗面書に 行ったちょっとした隙に私の全財産 3000円入りの財布は消えてしまいまし た。盗まれてしまった赤い花柄の財布なん です。探してください。駆けつけてくれた 車掌さんは困った顔をしていました。上の 段の男の人も気がつかなかったと言います 。私は必死でした。3000円のお金は 当時の私にとって本当に大切なものでした 。1000円でも2000円でもお金を 稼いで家計を助け高校へ通うのが私の 勤務めなのです。列車は金沢に到着し、私 は打ちのめされたような気持ちのまま のろノろと列車を後にしました。ラビット ちゃんテストどうだった?今度勉強見て あげるよ。その日戸城さんと赤木敬一郎 さんは何日も遅れてロケに駆けつけた私を 温かく迎えてくださいました。スタッフも 初めての地方ロケでおどおどしている私に 優しくしてくれました。しかし私は盗難に あったことを誰にも話しませんでしたと いうより話せなかったのです。映画会に足 を踏み入れたばかりの私はまゆいばかりに 華やかな世界に圧倒されていました。気軽 に相談できる人もいませんでした。 200円、300円のお金でも誰かに貸し てくださいと頼む勇気が当時の私にはあり ませんでしたし、家へを打つお金もなく 電話もかけられないまま夜を迎えました。 その夜宿泊した旅館で私の落ち込んだ 気持ちに追い打ちをかけるようなことが 起こりました。映画の中で重要なダンサー の役を演じる女優さんが私と糖質でした。 彼女は宿に帰るなりビールを飲み始め、 大部屋の女優さんたち5、6人を招き入れ て部屋で怪気を上げましたね。あのB監督 のことどう思う?ヒステリーばかり起こし て最低だね。今年ニューフェースで入った A君大人なしそうな顔してるけど相当な もんだってよ。テーブルの上には次第に ビールが乱立し、泡がこぼれ、食べ物が 散らばっていきました。私はすみっこに ペタっと座って転がっているビール瓶の数 を数えていました。とうとう32本の ビールが殻になり、彼女はグでんぐでんに よって畳に転がってしまいました。1人 2人と女優さんたちは引き上げていき、今 までの騒ぎが嘘のように静かになりました 。酒を一滴もまない父親と3人の女家族に 囲まれて育った私が我が家では決して見る ことがなかった後光景。私はこの時これ から入っていかなければならない大人の 世界を恐ろしいと思い、いつまでも中を 睨んで動くことができませんでした。 半島は夏祭り。男たちは見越をかぎ、短い 夏の日差しを精一杯楽しんでいました。 ロケは燃える男たちと見越の生きう進め られ7枠温泉と回って1週間後に金沢に 戻ってきました。金沢日活でジさん、赤木 さんと一緒に舞台挨拶をして欲しいんだと 宣伝部の人に言われ、私は初めて映画館の 満員の観客の前に立ちました。初めての 舞台挨拶です。緊張して足が震え、私は 拍手がもらえないのではないかと不安で いっぱいでした。しかし嬉しい検討違い でした。おり氏も無敵が俺を呼んでいるが 上映されていたとはいえ、名前さえ分から ない新人の私にも客席からいっぱいの拍手 が送られたのです。私を温かく励まして くれているかっと顔中が熱くなり、唇を 噛みしめて精一杯のお辞儀を繰り返しまし た。 そして宿へ帰ると宣伝部さんがポンと 衆議袋をくれました。今日のギャラだよ。 小遣いにしなさい。思いがけないことでし た。廊下の片隅でそっと袋を開けたら 2000円も入っていたのです。私は 嬉しくて嬉しくて飛ぶようにケーキ屋に 走り、大きなデコレーションケーキを買っ て宿に帰りました。そして誰に遠慮する こともなく思いっきりケーキを放張りまし た。取られてしまった財布のことを誰に 話すこともできず、何も変えずにじっと 我慢していた10日間。大切なギャラで 注文したオレンジジュースは甘く喉に染み て涙がこぼれました。 今回はこれで終了です。この動画が皆様の 今後の映画鑑賞に少しでもお役に立てれば 幸いです。長時間のご視聴ありがとう ございました。それではまた次回別の動画 でお会いしましょう。ごきげよう。

本動画においては、特に以下の3冊から多く引用しました。著者の皆様に深くお礼申し上げます.
「吉永小百合―夢一途 」吉永小百合著 日本図書センター 2000
「夢の続き」吉永小百合著 集英社2012
「私が愛した映画たち」吉永小百合:談/取材・構成:立花珠樹 集英社新書2018
いずれも名著なので、動画でご紹介しきれなかった部分は、ぜひご購入いただきお楽しみください。

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