JR深谷駅前の様子。わが故郷、滋賀県彦根市の国宝・彦根城を散歩しながら、井伊直弼の人生を解説します。未曽有の国難に対応し、桜田門外の変で雪の上に散った男が見た彦根の風景をどうぞ! #青天を衝け #茶歌ポン #桜田門外の変
00:00 JR深谷駅 渋沢栄一像 青淵広場
00:48 大老 井伊直弼 井伊の赤備えの甲冑
01:31 JR彦根駅 井伊直政公之像 おんな城主 直虎
03:16 井伊直弼 花の生涯 彦根城 散歩
03:30 彦根城 井伊直弼 青天を衝け紀行 埋木舎と佐和口多聞櫓と中堀
07:03 月明 彦根の古城 琵琶湖八景 男はつらいよ
07:32 長野義言 彦根城表御殿 彦根城博物館
09:00 彦根城 楽々園(欅御殿)から玄宮園 花の生涯
18:46 彦根城 内堀と黒門
19:16 彦根城 天秤櫓
20:04 石田三成 佐和山城と彦根城 天秤櫓
20:35 ひこにゃんと国宝 彦根城天守
20:52 彦根城西の丸三重櫓 江~姫たちの戦国~ ロケ地
21:10 浅井長政の小谷城天守を移築したとの伝承あり
21:21 彦根藩筆頭家老 木俣土佐が守った西の丸三重櫓
土曜スタジオパーク『青天を衝け』in 埼玉 ゲスト 吉沢亮 高良健吾
2021年4月10日放送
埼玉県深谷市からの公開生放送。ドラマの舞台裏!橋本愛、満島真之介、板橋駿谷らが、2人の素顔を包み隠さず証言!実在した栄一と喜作のリアルな人間関係を分かりやすく解説。栄一がこよなく愛した 深谷郷土料理講座や武州ことばコーナーも!
第8回 栄一の祝言 あらすじ 2021年4月4日放送
ついに、渋沢栄一(吉沢亮)は自分の思いを語り、尾高千代(橋本愛)に結婚を申し込む。と、そこに待ったをかけたのは渋沢喜作(高良健吾)。栄一と喜作は剣術で勝負をすることに。一方、江戸幕府では、大老になった井伊直弼(岸谷五朗)が「日米修好通商条約」を結ぶが、調印は違勅だと大問題に発展。井伊に意見した徳川慶喜(草彅剛)や徳川斉昭(竹中直人)には処分が下され、安政の大獄と呼ばれる苛烈な弾圧が始まる。
慶喜の将軍就任を拒む徳川家定の一存で大老となった井伊は日米通商条約を結ぶも調印は違勅だと大問題に発展。井伊は激怒した慶喜に呼び出されるが、何を言われても「恐れ入り奉ります」で押し通す。慶喜はお世継ぎの件を聞くも「恐れ入り奉ります」と答え、慶喜も「さっきからなにを恐れ入っておる」と聞くも、再びの「恐れ入り奉ります」。慶喜が次期将軍が「紀州殿に決まったのだな?」「さもありなん」と喜ぶシーンも描かれた。徳川家康(北大路欣也)が、井伊が茶の湯や和歌、鼓を好んだことから「茶歌ポン」のあだ名があったことも紹介。なお、「恐れ入り奉ります」は、「西郷どん」で、井伊直弼(佐野史郎)が連呼していた。
「茶歌ポン」と呼ばれた男、大老 井伊直弼の、ふるさと。滋賀県彦根市。井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日、井伊直中の十四男として彦根城二の丸槻御殿で生まれる。母は側室の君田富。父の隠居後に生まれた庶子であった。父の死後、三の丸 尾末町(おすえちょう)の屋敷に移り、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした。この間、近江・市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野義言(ながのよしとき)と師弟関係を結んで国学を学んだ。また、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、兵学、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。弘化3年(1846年)、井伊直亮(なおあき)(直中三男)の養嗣子となっていた直元(直中十一男)が死去したため、江戸に召喚され、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。以降、世子として江戸に住まい、直亮の在国時は代わって江戸城溜間(たまりのま)に出仕したり、他大名家と交流を持つなどの活動を行っている。嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで藩主となる。彦根藩主となった直弼は人事の刷新に着手した。筆頭家老・木俣守易(もりやす)を職務怠慢を理由に罷免し隠居謹慎処分とするなど、国元にいた直亮の側役3名を直亮の病状を自分に報せなかったことを理由に罷免あるいは役替とした。彼らの後任には新野親良(にいのちかよし)など、長野義言の門人や部屋住み・世嗣時代からの側近など直弼に近い人物が充てられた。嘉永3年(1851年)12月2日、直弼は家中に向けて8箇条の書付を出した。その中で直弼は、藩主・藩士・領民の一和を説いて藩士には積極的な意見の上申を奨励し、有意な上申や職務に精励する藩士には褒賞・人材登用の道を示して家中の意識向上を図り、そうした人材を育成するための藩校や家族の役割を重視する姿勢を示した。また同日、亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両を士民に分配した。嘉永4年(1851年)6月11日、直弼は藩主として彦根に初入部した。帰国した直弼は9月15日からの5日間、愛知郡・神崎郡の村々を巡見した。以降、領内巡見は直弼在国時の恒例となり、安政4年(1857年)までに9回行われ領内のほぼ全域を見分している。嘉永5年(1852年)、丹波亀山藩主・松平信豪(のぶひで)の次女・昌子(のちの貞鏡院)を娶った。同年4月、長野義言を彦根藩士として召し抱える。以降、長野は直弼の側近として活動し、また藩の重役の多くが彼の門人によって占められるようになる。嘉永6年(1853年)6月8日、帰国したばかりの彦根で黒船来航の一報を受けた直弼は7月24日に江戸へ出府した。これに先立つ6月26日、老中首座の阿部正弘は、アメリカ合衆国の国書の写しを溜詰・溜詰格の大名に示し、アメリカの要求に対する対策を諮問してきた。直弼は8月10日に提出した意見書で「天主の邪教を防ぐという国益がある」と鎖国の継続を主張していたが、8月29日に提出した2通目の意見書では一転して現状での鎖国の維持は無謀とし、積極的な交易と開国を主張している。ただし、この意見書の後半には「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記している。老中首座・阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から徳川斉昭、松平慶永ら雄藩藩主との連携方式に移行させ、斉昭を海防参与として幕政に参与させた。斉昭は攘夷を度々、強く唱えた。直弼ら溜詰諸侯と、阿部正弘や徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖之間(さいこのま)での討議で頂点に達した。安政2年(1855年)3月、アメリカから日本沿海測量の要望があった。幕府内は拒絶か容認かで二分されたため、阿部正弘は斉昭へ諮問し事態の収拾を図ろうとした。斉昭は阿部に、開国・通商派の老中、西尾藩主・松平乗全(のりやす)と、老中、上田藩主・松平忠固(ただかた)の2名の更迭を要求し、8月4日に阿部はやむなく両名を老中から退けた。10月9日、阿部が溜詰格の佐倉藩主・堀田正睦(ほった まさよし)を勝手掛老中に推挙して老中首座を譲ったことで対立はひとまず収束した。安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、溜詰の意向を反映した堀田正睦・松平忠固の連立幕閣が形成された。さらに直弼は第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では血統を重視する立場から紀州藩主の徳川慶福を推挙し、徳川慶喜を推す前水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派との対立を深めた。安政4年(1857年)10月27日、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが江戸城にて将軍・家定に謁見し、大統領フランクリン・ピアースの親書を奉呈し、公使の江戸駐在と通商条約交渉の開始を要求した。幕府は諸大名や直参に大統領親書とハリスの口上書の内容を開示し、公使駐在と条約交渉開始の是非についての意見を求めた。是認・拒否と意見が割れる中で直弼は溜詰9家を結束させ、交渉を許容する旨の意見書を連名で提出した。幕府は開国を決定し、12月17日より全権となった下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震(ただなり)がハリスとの交渉を開始。翌安政5年(1858年)正月8日、堀田正睦が勅許奏請のため上洛を命じられた。安政5年(1858年)4月21日、孝明天皇からの条約勅許の獲得に失敗した堀田正睦が江戸に戻り、将軍・家定に復命した際、堀田は福井藩主・松平慶永を大老に就けて、この先対処したいと家定に述べたところ、家定が「家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言ったため、急遽、直弼を大老とするよう将軍周辺が動いた。4月22日には御徒頭・薬師寺元真(もとざね)が彦根藩邸を訪れ、「水府(すいふ)老公(徳川斉昭)が家定を押込(おしこめ)にして徳川慶喜を後継に立て、実権を握ろうとしている」と一橋派によるクーデター計画の情報をもたらした。直後に老中から御用召しの奉書が直弼のもとに届けられた。4月23日、登城した直弼は老中から大老職拝命を伝えられ、大老に就任した。直弼は同日から御用部屋に入って執務を始め、「畳の温まる間もなく、海防策についての意見を述べられたので非常に驚いた」との幕府右筆役の証言が残っている。直弼自身は、勅許なしの条約調印には反対であった。6月中旬、清国でアロー戦争が休戦となったことをきっかけに、ハリスは神奈川沖まで廻航し、戦勝の勢いに乗った英仏連合艦隊が日本に来航し、前年に結ばれた下田条約を超える内容の条約を要求してくるであろうから、速やかに米国と条約を締結してこれに備えるべきと勧告してきた。 これを受けて6月18日に行われた幕閣会議では、直弼と若年寄・泉藩主、本多忠徳のみが勅許を得てからの条約調印を主張。急ぎ勅許を得るあいだ、調印を引き延ばすようハリスと交渉するため、下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震を派遣したが、即刻の調印を目指していた井上と岩瀬は、やむを得ない場合は調印してよいかと直弼に尋ねたところ、直弼は「已むを得ざれば、是非に及ばず」と答えた。すなわち、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした。これを受け、井上と岩瀬は調印承諾の言質を得たと判断して、6月19日にポーハタン号のハリスのもとに行くと、その日のうちに日米修好通商条約に調印した。勅許を得られぬまま条約調印が行われた事態に直弼は大老辞職の意思を宇津木景福(かげよし)ら側近に漏らしたが、宇津木らに「いま辞職すれば一橋派を利するだけである」と 諫言されて翻意している。6月23日、直弼は堀田正睦と松平忠固(ただかた)を罷免し、代わって掛川藩主・太田資始(すけもと)、鯖江藩主・間部詮勝(まなべ あきかつ)、西尾藩主・松平乗全(のりやす)の3名を老中に起用。6月24日、前水戸藩主・徳川斉昭、水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)、尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ、のちの慶勝)、福井藩主・松平慶永が江戸城に無断登城した。斉昭らは幕府の違勅調印を非難し、事態収拾のため徳川慶喜を将軍継嗣とすることと松平慶永の大老就任を要求したが容れられなかった。翌25日、幕府は徳川慶福(よしとみ)の将軍継嗣決定を公表。7月6日、第13代将軍・徳川家定、死去。享年35。養子となった慶福改め家茂が跡を継いだ。そして、7月5日から6日にかけて、幕府は斉昭ら4名と徳川慶喜に、隠居、謹慎、登城停止などの処罰を行った。
第9回 栄一と桜田門外の変 あらすじ 2021年4月11日放送
井伊直弼(岸谷五朗)により、蟄居を命じられた徳川斉昭(竹中直人)や徳川慶喜(草彅剛)は無言の抵抗を続ける。しかし、その井伊は桜田門外の変で暗殺され、斉昭も突然の死去。父の死を耳にした慶喜は慟哭する。一方、江戸から戻った尾高長七郎(満島真之介)に感化され尊王攘夷の考えに傾倒し始めた渋沢栄一(吉沢亮)は、渋沢喜作(高良健吾)に続いて自分も江戸へ行きたいと父・渋沢市郎右衛門(小林薫)に懇願する。