日航機墜落から40年 元自衛隊員語る“あの日” 残された140枚以上の写真【羽鳥慎一モーニングショー】(2025年8月12日)

午前7 時半頃手には備えるための花を待ち、おスタの鬼を登っていく関係者の姿がありましてこの [音楽] 40 年間で美族の方も随部分お空に行かれた方が多くて私はそば 息子や孫がいるからまずその人たちに どういう形で伝えていくかってことを私たちまだ頑張ってるよってうん。頑張るからね。お空で見ててっていう思いで流しました。 [音楽] 翼の部分でしょうかね。ジャルという部分文字が見えております。後範囲にわって期待の一部片が飛び散っているようです。ま、日光機の墜落の衝撃が相当激しかったかと物語っているわけです。 40年前の今日、日本航空 123便が高のに墜落。乗客上員 520人が犠牲となりまして。 あ、こちらがその資料です。 はい。 これは35 年間防衛省に保管されていた墜落事故当時の資料。 そこには陸場自衛隊が撮影した捜作野球所の写真 140万以上が残されていまして 私が映ってますね。 当時 はい。 おいくつぐらいですか?26ですね。 当時陸自衛隊の第 1 空艇団に所し墜落現場へ入った岡部也さん。 あの、13 日の到着してからですね、まだあの、燃えてますから、あの、降りたい時にですね、 岡部さんの舞台が到着した時、期待の残骸や周辺のから白い煙が立ちっていまして。 [音楽] かなりの段です。え、捜索をするにも足場が悪くてなかなか進まないといった感じです。 [音楽] 墜落現場は登山道もなく落石も多い山岳 地帯で陸場から墜落場所へ向かうのは困難 な状況でして 自己現場はまるで崖のようなきつい斜面で わずかな足に立つ捜索体の姿が移ってい ます。 当然ヘリが着陸できる場所はありません。 これは当時陸上自衛隊が撮影した映像。空中でヘリを停止し、後方からロープを使って降りていました。 凄まじいですね。 ま、地獄ていうか、あの、本当に今まで 当然ですが、体験したことないような悲惨 な状態ですので、 これ最初に踏んだのがあの 亡くなった方の耳だったんですね。その耳 を踏んだこと自体がすごい最初に衝撃的 でしたし、申し訳ございませんという思い で、 [拍手] 午後6時24分。爆発音をきっかけに 123便に異変が起きます。 この時、機内の気圧を保つため、外と機内 を遮断する圧力確が突然破損。 客室の空気が美翼内に流れ込んだことで 垂直美翼が爆発しました。 [拍手] [音楽] 123 便は残された翼の操縦に必要な油圧系統を全て失い操縦不可能な状態に陥りま [音楽] はい。 [音楽] 操縦の効かない期待は意図しない方学へ進みろ。 [音楽] 期待は横滑りのような横揺れと 急激な上昇と効果を続ける縦揺れを 同時に起こしている状態でした。 [音楽] [拍手] [音楽] [音楽] [拍手] 爆発からおよそ32分後の午後6時56分 。 おたのに123便が墜落しました。 自衛隊の到着後、真っ先に行われたのが 生存者の捜索です。 人のご遺体がそれこそもあのすごい状態に なってる。バラバラになったり色々してる のにぬいぐるみがですねいくつも落ちてる んです。それも綺麗な状態でそれがすごい 印象的なんですよ。 本当に悲惨な状態になったに対して大避的にものすごくうん、何とも言えない思いでしたですね。はい。 そんな中無線に生存者発見の連絡が入ります。 やっぱこれで生き残るというのは波のことではないよなという意識にはなってました。ですから逆に生存者聞いた時にえっという本当に驚きました。はい。 [音楽] 私も声かけましたんで頑張れよってもうすぐ減りくるぞってお子さんは首振られた記憶がありますので答えられたような気がしました。ああ大丈夫だなと思ってですね。その時に この墜落事故で 4人の生存者が救助されました。 テリポート作最後の番かな。 14日の夜かなんかかもしれません。 あの、現場検証終わったご遺体はヘリポートがないともうどうしようもないという状況になったのでとにかく慌ててヘリポート作りなさいというメールを受けたんですよね。生存者の捜索を終えると今度は遺体の搬送をしなければなりません。 [音楽] 1 秒でも早く遺族の元へ帰れるよう臨時のヘリポートを作ることがキ務となりました。 で、この辺のヘリポート作ってるのは全部空のタ員です。 これはあの木を伐採したりチェンソで切ったりしてあのこで切ったりしますから。 [音楽] 写真にはスコップやツハを握る隊員の姿。隊員の手で土や岩を削り平な場所を作るところから始めました。 [音楽] これ13 日もここで仮面をしてこの辺実は周りがご遺体なんですよ。寝たっていうよりもなんか何回も何回も目が覚めるような状態だったですね。 作業は夜中まで続き、 1 度仮眠を取った後、早朝から作業を再開。午前 7 時頃にヘリポートの運用を開始しまして、 曲がってきたご遺体を送られてきた毛布でくるんでヘリディ乗せて送り返す。そういうことを 1日14日10 やってましたですね。はい。 事故から3 日後、任務を帰還した岡部さんにある異変が起きまして、 [音楽] 帰った時にですね、あの、いわゆる残ってた隊員たちから我々の目がおかしいってこう言わたんですね。 ちょっと暗いところが怖いく感覚なって寝 てる 途中にこう窓の外にあの自分が関わったま したご遺体が並ぶんです。前晩前番ですね 。で実質それが約1ヶ月間ぐらい続くん ですけど急制ストレス障害というのにあの かかったというかそういう状態だったと いうのが後で分かりました。 でも当時はそれを知りませんでしたね。で、それを今度逆に言うと恥ずかしかったんです。当時生産な墜落現場に精神的な傷を残したという岡部さん。現在は震災などの災害派遣を経て隊員のメンタルケアも変化していったと言います。 [音楽] あの、カウンセリングがあったり、いろんなことやりながら今そういう状態に陥らないようにしてます。極端にそういう風な状況になるっていうのは今減ってきてる。今はさしちゃいけない経験ですんでの人後出てくれ。 [音楽] [音楽] [拍手]

 日航機が墜落して520人が犠牲となった事故から12日で40年になります。事故直後の現場の様子を写した写真です。救助にあたった元自衛官が当時の状況について話しました。

■遺族ら御巣鷹の尾根へ

 12日午前7時ごろ、手には備えるための花を持ち、御巣鷹の尾根を登っていく関係者の姿がありました。

父・若本昭司さん(当時50)を亡くした若本千穂さん
「40年間で遺族の方もお空に行かれた方も多くて、私はそばに息子や孫がいるから、まずその人たちにどういう形で伝えていくかと、私たちまだ頑張ってるよって頑張るからね、空で見ていてって思いで流しました」

 40年前の12日、日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員520人が犠牲となりました。

■元自衛隊員が降り立った現場

 35年間、防衛省に保管されていた墜落事故当時の資料。そこには陸上自衛隊が撮影した捜索や救助の写真、140枚以上が残されていました。

「私が写ってますね」
「(Q.当時、おいくつぐらいですか)26歳ですね」

 当時、陸上自衛隊の第一空挺(くうてい)団に所属し、墜落現場へ入った岡部俊哉さん。

「(写真は)13日の到着してからですね。まだ燃えてますから降りた時にはですね」

 岡部さんの部隊が到着した時、機体の残骸や周辺の木々から白い煙が立ち上っていました。

 墜落現場は登山道もなく、落石も多い山岳地帯で、陸上から墜落場所へ向かうのは困難な状況でした。事故現場はまるで崖のようなきつい斜面で、わずかな足場に立つ捜索隊の姿が写っています。当然、ヘリが着陸できる場所はありません。

 これは当時、陸上自衛隊が撮影した映像です。空中でヘリを停止し後方からロープを使って降りていました。

岡部さん
「すさまじいですね。地獄絵図というか、本当に今まで体験したことがないような悲惨な状態ですので、(ヘリから)降りて最初に踏んだのが…亡くなった方の耳だったんですね。その耳を踏んだこと自体がすごい最初に衝撃的でしたし、申し訳ございませんという思いで…」

■危機迫った機内 緊迫の音声

ボイスレコーダーの音声(1985年8月12日午後6時24分)
「(爆発音)」
機長
「なんか爆発したぞ」

 午後6時24分。爆発音をきっかけに123便に異変が起きます。この時、機内の気圧を保つため外気と機内を遮断する圧力隔壁が突然破損。客室の空気が尾翼内に流れ込んだことで、垂直尾翼が爆発しました。

ボイスレコーダーの音声(1985年8月12日午後6時27分)
機関士
「ハイドロプレッシャ(油圧)、オールロス」
副操縦士
「オールロスですか?」
機関士
「オールロス」
副操縦士
「オールロスね?」
機関士
「はい」

 123便は残された翼の操縦に必要な油圧系統をすべて失い、操縦不可能な状態に陥いりました。

ボイスレコーダーの音声(1985年8月12日午後6時47分)
機長
「山にぶつかるぞ」
副操縦士
「はい」
機長
「ライトターン、マックパワー(最大出力)」
副操縦士
「マックパワー」

 操縦のきかない機体は意図しない方角へ進み…。

ボイスレコーダーの音声(1985年8月12日午後6時50分)
機長
「がんばれ」
副操縦士
「はい」
機長
「あたま下げろ」
副操縦士
「はい」
機長
「がんばれ、がんばれ」

 機体は横滑りのような横揺れと、急激な上昇と降下を続ける縦揺れを同時に起している状態でした。

ボイスレコーダーの音声(1985年8月12日午後6時56分)
機長
「あたま上げろ、あたま上げろ、パワー」
「(地上接近警報)」
「(衝撃音)」

 爆発からおよそ32分後の午後6時56分。御巣鷹の尾根に123便が墜落しました。

■奇跡の生存者 「がんばれ!」

 自衛隊の到着後、真っ先に行われたのが、生存者の捜索です。

岡部さん
「人のご遺体が、それこそすごい状態になってバラバラになっているのに、ぬいぐるみがですね。いくつも落ちているんです。それもきれいな状態で。それがすごい印象的なんです。本当に悲惨な状態になったご遺体に対して対比的にものすごく何とも言えない思いでした」

 そんななか、無線に「生存者発見」の連絡が入ります。

「やっぱり、これで生き残るというのは並大抵のことではないよなという意識にはなっていました。ですから逆に生存者って聞いた時に『え?』という本当に驚きました。私も声を掛けましたので『頑張れよ』って『もうすぐヘリくるぞ』って言っていました。お子さんは首を振られた記憶がありますので、答えられたような気がしました。大丈夫だなと思って、その時に」

 この墜落事故で4人の生存者が救助されました。

■遺体搬送へ 手作業ヘリポート

岡部さん
「ヘリポートを作って最後の晩かな、14日の夜かもしれません。現場検証が終わったご遺体はヘリポートがないともうどうしようもないという状況になったので、とにかく慌ててヘリポートを作りなさいという命令を受けた」

 生存者の捜索を終えると、今度は遺体の搬送をしなければなりません。1秒でも早く遺族の元へ帰れるよう、臨時のヘリポートを作ることが急務となりました。

「この辺のヘリポートを作っているのは全部空艇の隊員ですね。これも木を伐採したり、チェーンソーで切ったりして、のこぎりで切ったりしますから」

 写真にはスコップやツルハシを握る隊員の姿。隊員の手で土や岩を削り、平らな場所を作るところから始めました。

「13日の夜。もうここで仮眠をして、この辺実は周りがご遺体なんですよ。寝たというよりも何回も何回も目が覚めるような状態だった」

 作業は夜中まで続き一度仮眠をとった後、早朝から作業を再開。午前7時ごろにヘリポートの運用を開始しました。

「上がってきたご遺体を送られてきた毛布でくるんで、ヘリに乗せて送り返す。そういうことを一日、14日中やっていました」

■元自衛隊員「ストレス障害」に

 事故から3日後、任務を終え帰還した岡部さんに、ある異変が起きました。

「(墜落現場から)帰った時に、いわゆる(駐屯地に)残っていた隊員たちから我々の目付きがおかしいと言われました。ちょっと暗い所が怖い感覚になって、寝てる途中に窓の外に自分が関わったご遺体が並ぶんです。毎晩毎晩ですね。実質それが約1カ月間ぐらい続くんですけど、急性ストレス障害というのにかかったというか、そういう状態だったというのが後で分かりました。でも当時はそれを知りませんでしたので、それを今度逆に言うと恥ずかしかったんですよ」

 当時、凄惨(せいさん)な墜落現場に精神的な傷を残したという岡部さん。現在は震災などの災害派遣を経て、隊員のメンタルケアも変化していったと言います。

「カウンセリングやったり、いろんなことをやりながら今そういう状態に陥らないようにしています。極端にそういうふうな状況になるというのは今減ってきています。今はさせちゃいけない経験ですので」

(「羽鳥慎一 モーニングショー」2025年8月12日放送分より)
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