【県関係10人犠牲】日航機墜落から40年・妹を亡くした兄が初めて語る
その飛行機に実際乗ってるという風には 思ってはなかったので 1985年8月12日帝国より4分遅れで 羽田を飛び立った日本航空123便が突如 消息を立てた。群馬県小山で見つかった その機待はミルも無惨な有様だった。 病院乗客524人を載せた満席のジャンボ が継ぎられ 520人、生存者わずか4人という日本の 航空機市場最悪の第三次だ。 当時の中川町出身で東京で暮らす農人 知恵子さんはこの日大阪を経由して実家へ 規制する予定だった。 ち恵子さんは東京の大学を卒業後、東京の アパレル会社に就職しました。 社会人となり初めてのお盆休みを故郷徳島 で過ごそうと乗った飛行機で事故に会い ました。当時22歳でした。 こんにちは。 今日はよろしくお願いします。 知恵さんの兄農人正明さん 成下の道場寺で住職を務める方 京都の流国大学で教授として仏教を教えていることもあったいてそれあの 40 年え経つわけですが今どのような心境でしょうか? そうですね。うーん。 [音楽] まあ、もう40 年経ったのかという、そういう思いと早かったなという、ま、思いとそういう思いですかね。 え、 当時27 歳だった正明さんは通っていた京都の大学院から一足先に規制し、千恵子さんの帰りを待っていた。 ま、夏休み 12日に、ま、飛行機で帰ってくるという のは聞いてたように思いますけども、その 時間はっきり聞いてはなかったので、その 事故があったということを 、ま、聞いた時の、ま、その飛行機に 実際乗ってるという風には思ってはなかっ たので、一方 えた123 便は夜になっても見つからなかった。 このは午後から捜索がする中発表された乗客名部に無に恵さんの名前があっ 生存者数名との情報が日本中をかけ巡った 家族は皆かな可能性に望みをかけた。 心の中ではね、本当に 奇跡が起こることも祈ってますけども、あの、じてますけどもね。 しかし奇跡は起きなかった。 4 人の生存者の中にち恵子さんはいなかった。 [音楽] まだ22 歳。人生の喜びを知る前にその若い命は押山へと消えた。 [音楽] どうしてこんな事故がね、あの、起こるの かとかね、もう少しこう救助活動が早けれ ばね、もっとたくさんの、え、救われた命 もあったと思うんですけどね。でも、ま、 実際その原発非常にね、険しいとこです から、そんな簡単に行けるようなとこじゃ ないですからね。4 人助かったってことは、それ飛行機事故の中でね、ま、珍しいことだと思いますし、 柔らかな笑顔が今も蘇える 助かった命の中にそらできればね、その含まれては欲しかったですけどね。今で割と防一種な元だったように思いますね。記憶からなくなるっていうことはないんですけどね。 ち恵子さんの分まで行きようみたいな思いっていうのはありますか? ま、生きられるわけじゃないとは思いますけどね。あの、無駄にはしないようにはね、したいとは思ってますね。 あの日から40 年、遺族会は今年泣き家族へ向けた主を集めた文集を [音楽] 10年ぶりに出版した。 [音楽] 安全というのは決して人から与えられる ものでは ないし自然にそれがあるわけでもないので 、 ま、普通に人間がやってることですから、 あの、事故はね、そ、起こってくるんで、 だからそういうことが、ま、起こらない ようにじゃあ何ができるのかということを ね、やっぱりこ 歴史というか過去というかね、ま、そう いうところからやっぱり、え、知って 欲しいところはありますよね。 多くの命が一瞬にして失われた日本航空 機市場最悪の悲劇。しかし当然ながら犠牲 となった520人1人1人に日常があり、 友人があり、掛けがえのない家族があった 。 その家族を突如して奪われた正明さんは 自分にできることを懸命に探しながらこの 40年を生きてきた。そんな正明さんを 支えたのは出会った多くの人々の励まし だったという。 悲劇を2度と繰り返さないために思いは 未来へと受け継がれていく。
520人が犠牲となった日航機墜落事故から8月12日で40年。事故で妹を亡くした阿南市の能仁正顕さんは、「事故が起こらないように何ができるのか、歴史や過去から知ってほしい」と、語りました。#徳島 #日航機墜落事故 #40年 #520人が犠牲 #妹 #能仁正顕さん #四国放送
