日航機墜落から40年 慰霊登山に黒木瞳さんも お笑い芸人目指した弟の遺品と初めて向き合う姉…ひしゃげた10円玉が衝突の衝撃物語る

乗客上員520 人が犠牲になった日光ジャンボ墜落事故から今日で 40年。 イレート登山に望んだのは 81家族277人です。 その1人 小林ゆ子さん、 弟の加藤弘さんをなくしました。弘幸さんは 21歳の若さでした。 年が行けば行くほど弟への思いが恋しくなりますね。あ、そうです。 山の変化っていうのも感じますか? ほ、穏やかになりましたね。最初は もう木もなく うん。 もう緑もなく石が転がる中を うん。うん。 登っていったんですが うん。 時が立って木が美味しげって ああ、 草の命を感じます。 うん。 すごく うん。 心休まる。私は本当に心休まる うん。うん。 山になりました。 事故から40年 山の景色は大きく変わりました。 1985年8月12日、羽田初行きの日光 ジャン部機123便が群馬県上野村の小鷹 の大根に墜落しました。乗客上員520人 が亡くなり、単独の事故としては航空市場 最悪の事故でしたが、 事故から1夜明け、4人の生存者が救出さ れる様子がカメラに捉えられていました。 奇跡の生存者がいると報じられた一方、 小林さんの弟幸さんの遺体が確認されたのは事故から 7日目だったと言います。およそ 1 時間博幸さんの母標に到着。母然に自算したひ回りの花を備えました。 はい。毎年ひ回りではい。 うん。うん。うん。 ひりのような うん。 弟だったんで。 お笑い芸人の道を心していた弘幸さんは中学生の頃から資料と参加のテレビ番組に出演。当時は東京都内の小パ部のステージを中心に活動していました。 当時弘雪さんとコンビを組んでいたテラカド文明さんはひ幸さんについて いきなりですもん。 初めて会った人でももう忘れないみたいな強烈なインパクトだったですね。海水欲とか行くじゃないですか。じゃあ寺ラかこれからやろうぜってそこでいきなり賞を始めるわけですよ。 で、その頃結構ちょくちょくテレビとかも出てましたんで、あ、なんか見たことあるやつだなみたいな感じで 小林さんも 人を笑わせる子でした。容気でした。本当に容気でした。 [音楽] 持ち前の明るさで夢に向かっていた幸さん。お笑いの本場を見たいと自己に登場し、大阪に向かっていたのです。 飛行機に乗る前に電話で8月15日に帰っ てくるからその時に会おうねっていうのが あの弟からの電話の最後 いつかひょっこり帰ってくんじゃないかな みたいな 博幸さんの突然の死を受け入れられなかっ た小林さんはこの40年と向き合う ことができなかったと言います。 40 年が過ぎた。今日持ってきてあげたよ。 箱の中に入っていたのはひ幸さんの異品。お財布に入っていた玉は大きく飛げ。 [音楽] こんなに自分だ。 墜落の衝撃を物語っていました。 40年間手に取ることができなかった。 これを見たこの免許所見た瞬間にやっぱりお父さん乗ってたんだなって。 今日ここに持ってこれれてよかったです。ひろちゃんがいつも言ってたようにまた明日から笑顔でないで頑張っていきます。 事故を風化させたくない。 その強い思いが込められた 40 年目のイレート山さんでした。どうかもう私たちのような遺族を産んだりしないでください。 イレート登山では犠牲者の 1 人北原洋子さんと宝塚過激団で同期だった俳優の黒木ひさんの姿も [音楽] 自分の中でどうしても認めたくないなんか本当に認めなきゃいけないんだなっていう思いがはあって 520人の方のあのねお気持ち 慰例も含めて40 年という、ま、採、え、ま、決意させてくれたというか登る 携誰 決意をさせてもらったような気がします。 [音楽] ສ

乗客・乗員520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から12日で40年。
慰霊登山に臨んだのは81家族、277人です。

その1人、小林由美子さん(66)は、弟の加藤博幸さんを亡くしました。
博幸さんは21歳の若さでした。

弟を亡くした小林由美子さん:
年がいけばいくほど、弟への思いが恋しくなる。(Q.山の変化は感じる?)穏やかになった。最初は木もなく緑もなく、石が転がる中を登っていたが、時がたち、木が生い茂り、草木の命を感じる。すごく心休まる、私は心休まる山になった。

事故から40年。
山の景色は大きく変わりました。

1985年8月12日、羽田発大阪行きの日航ジャンボ機123便が群馬・上野村の御巣鷹の尾根に墜落しました。

乗客・乗員520人が亡くなり、単独の事故としては航空史上最悪の事故でしたが、事故から一夜明け、4人の生存者が救出される様子がカメラに捉えられていました。

奇跡の生存者がいると報じられた一方、小林さんの弟・博幸さんの遺体が確認されたのは、事故から7日目だったといいます。

約1時間登り、博幸さんの墓標に到着。
墓前に持参したヒマワリの花を供えました。

弟を亡くした小林由美子さん:
毎年ひまわり。ひまわりのような弟だったので…。

お笑い芸人の道を志していた博幸さんは、中学生のころから素人参加のテレビ番組に出演。
当時は東京都内のショーパブのステージを中心に活動していました。

当時、博幸さんとコンビを組んでいた寺門史明さん(62)は博幸さんについて次のように語ります。

“相方”寺門史明さん:
初めて会った人も、もう忘れないみたいな、強烈なインパクトだったんです。海水浴とか行くじゃないですか、“寺門やろうぜ”っていきなりショーを始めるんですよ。そのころちょくちょくテレビも出ていましたので、(周りの海水浴客も)何か見たことあるやつだなと。

小林さんも「人を笑わせる子でした。陽気で、本当に陽気でした」と話します。

持ち前の明るさで夢に向かっていた博幸さん。
お笑いの本場を見たいと事故機に搭乗し、大阪に向かっていたのです。

弟を亡くした小林由美子さん:
飛行機に乗る前に電話で“8月15日に帰るから、その時会おうね”というのが最後の電話。いつかひょっこり帰ってくるんじゃないかみたいな。

博幸さんの突然の死を受け入れられなかった小林さんは、この40年、遺品と向き合うことができなかったといいます。

40年が過ぎた12日、小林さんが「持ってきたよ…」と開けた箱の中に入っていたのは博幸さんの遺品。

お財布に入っていた十円玉は大きくひしゃげ、墜落の衝撃を物語っていました。

弟を亡くした小林由美子さん:
40年間、手に取ることができなかった。この免許証を見た瞬間に、やっぱり弟は乗っていたんだなって。きょう、ここに持って来られてよかったです。ひろちゃんがいつも言っていたように、また明日から笑顔を忘れないで頑張っていきます。

事故を風化させたくない。
その強い思いが込められた40年目の慰霊登山でした。

弟を亡くした小林由美子さん:
どうかもう、私たちのような遺族を生んだりしないでください。

慰霊登山では、犠牲者の1人、北原遥子さんと宝塚歌劇団で同期だった俳優の黒木瞳さんの姿も。

同期を亡くした俳優・黒木瞳さん:
自分の中で認めたくない思いと、本当に認めなきゃいけないんだという思いがあって、520人の方のお気持ちも慰霊も含めて、40年という歳月が決意させてくれた。登る決意をさせてもらった気がする。

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