【KDDI創業者・千本倖生氏が語る】戦後80年特別企画①“激動”日本経済~偉人の言葉とは 千本倖生×モーリー・ロバートソン 2025/8/11放送<前編>

こんばんは。8月11 日月曜日山の日のプライムニュースです。今週は 8月15 日に終戦の日を迎えるにあたって今日から 1週間に渡り特別企画をお送りします。 テーマは戦後80年日本の歩みとこれから 80年の歴史を知る様々な分野任者を ゲストとしてお迎えし戦後復興と成長未来 について考えていきます。初日の今日は 経済がテーマです。ゲストとしてお2人を お迎えしました。 第2殿で現KDDI の共同創業者で新しいビジネスを何度も立ち上げ成功に導いてきた連続企業家の千本男さんです。よろしくお願いいたします。 よろしくお願いします。 そして広島や富山での暮らしも長かったという日本の国際ジャーナリストモーリーロバートソンさんです。よろしくお願いいたします。 よろしくお願いします。 お2 人には戦日本経済の旧成長の言動力になったのは何か。 またバブル崩壊後失われた30年と言わ れる経済不教はなぜ起きたのかを分析して いただき、日本経済再生への道筋について も伺います。 え、こちらに戦後の日本経済の歩みと本 さんの反省を重ねたパネルを用意しました 。 え、太平洋中の1943年にお生まれに なった八千さん。2歳の時に終戦を迎え ます。 高度経済成長時代に電者現在のNTTに 就職されアメリカ留学も経験されます。 電光者では経営の神様と呼ばれた松下之助 さんと出会い交流されています。そして その後なんですが一社独占状態にあった 電車を飛び出し稲森和夫さんと共に第2電 現在のKDDIを創業されます。 ソニーの森田明夫さんなど戦を代表する経営者たちに囲まれて会社を成長させていき、今や KDDI自価総額11 兆円という大企業になっています。 え、その後バブル崩壊など日本経済が、ま、停滞する中にあっても Eアクセス、さらにはEm イと次々に起業され、大成功。 ライバルでもあり、ご人でもあるという孫正吉さんにこれらの会社事業は受け継がれているということでございます。 ま、どこからお話を伺っていこうかなという風な印象なんですけれども、まずは今夜のテーマでもある戦後 80年ということ。 松本さん、ご自身は終戦 2 歳の時にお迎えになってますけれども、当時どんなことを思い出されますか? まだね、あの物心つかなかったんだけど、 私はその頃奈良に住んでた奈良市 はい。 で、奈良市はあの京都と共に第二次対戦で爆撃されなかったの。もういアメリカのインテリさせがすごいですね。ならと京都は爆撃しちゃいけないと。だから大仏伝残ってるわけですよね。 でもその一角にあのアメリカのね占領されててうん。 で、そこ行って僕らなんか中インガムあげるよとかチョコレートあげるよとか言って いわゆるあのギブ meーチョコレートって子供が言ってない。そう母親がすんなもらっちゃいけないっていうのに周りがみんなくれるって言うんじゃみんなでもらえに行こうつって。 あ、そうか。 あの、当時、ま、戦後すごくこうある意味で混乱の中だったと思うんですけれども、そのアメリカ軍、アメリカの人達っていうのはどのような印象を受けましたか? 僕が物心ついただけ、先中派だけども、物心ついた時はもう戦後ですよね。 で、その時のアメリカの人たってのはすごくジェネラスだったですね。観葉で明るくて、え、 あの、そういう意味ではキラキラい 輝てる。 うん。 ま、あの国ってのはすごいんだなということを本当にもうどん底の日本と ええ、 それから世界の派遣になるアメリカのね、そのギャップを身にしめて感じましたね。 あのお父様は技術者でらして軍事工場で当時あの戦争の時代は働いてらしたていうようなことを伺ったんですけれどもやっぱりあの戦後の世の中っていうのはその凄まじい変化というのがあ そうでしたね。 だから中は軍事工場で技術者でやってましたから 結構豊かだったんですよね。ところがでくそういった価値観が全部壊されて うん。 まあ戦後になると農家のおばさんとこ行ってお米をもらうために母親は着物を持っていって うん。ああ、 もう全く大逆転したんですよね。 なるほど。苦労されたでしょうね。 ま、でもそういったあの時代にあった日本が度経済成長でぐんとこう、ま、成長していくわけですけども、その言動力っていうのは瀬本さんはどんなところにあったと感じていますか? やっぱり日本人が元々持ってたね、その勢いっていうか、あの木みたいなものがね、 木 うん。だからやっぱり日本が本当にどん底まで行ったじゃないですか。 もう全く怪人に気しても全部亡くなった。 うん。 で、亡くなったところまで行って、でも日本の人たちのすご、そっからなんか立ち上がろうと。 うん。 だから全体の社会の中に壊滅的にやられたけどもこっから立ち上がんだという風な世の中を支配するような気があったような気がしますね。その中から森田さんが出てきたりで ええ、 いろんなその本田さんが出てきたり、いろんな人首が出てきたということじゃないですかね。うん。うん。 モリーさんはこの日本経の歩みにおけるこの連続企業さんの鉱というのはどうご覧になっていますか? いや、今あのおっしゃったその現体にちょっとまだ打ち飲めされてる余因の中に来ってる最中なんですけども、あの全く同じ頃日本の外から同じ時期の歴史を見つめてみるとあのアメリカとしては、ま、強大な敵として総力戦を展開して打ち任した日本がですね、あの色々な政治的な理由で日本に対する価 がアメリカ政府の中でも変わっていって日本は同盟にした方がいいと。 これだけのわゆる産業のあのうん。 その容量ですね。インダストリアルキャパシティを持っていて、ま、軍事とかだったんですけどそれをそのまま新べに転用してほしい。そしてこれが将来消費者層としても伸びるとアメリカ製品を作るのみならず買ってくれる という風にあの昨日までの敵が今日の共になっていたというその政治的な違いがあったんですね。 そしてまさに日本に充慢していたその着いというか木のようなもので、あの日本は相当にこう人口も余っていて若かわかしくてやる気満載であったと。 うん。 そに子供のたは GHが流してラジオのね、 米軍のジャズとかそういうネットワークの放送にとても強く感じった部分があったので、これはいけると なのでまずはあの同盟を大枠で軍事的にも産業的にも含み日本を援助し、その後は文化戦略で日本に新兵的なあの世論を若い人から 浸透させるということで、例えばフルブライト基金のようにですね、アメリカに ね、え、 実は私の母それでアメリカに弁しました。 なので、そういうそのやはりこう日本とアメリカの結びつきを作ろうとアメリカが積極的に手を伸ばした、 あのこれはアメリカの国益です。これはある意味利己的なもあるわけですよ。だって日本を爆撃してそんなに保証もせず味方につけたわけですから、こんな濡れ手に合はアメリカとはないわけですよ。ところが日本の特に若い世代の人がそれに乗ってくれた。 うん。うん。 そして先中を覚えていた技術者の方がアメリカとの結びつきがこれはチャンスになる。日本ももう 1 度産業の国として再生できるという願いを持ったここら辺の結び付けが大枠であり、その中で皆さんがここに努力されていたんだなと思いました。 あ、本さん、アメリカ留学、これあのフルブライトの危でということで経験されますけども、 これもかなり思い切った人生の決断だなという印象あるんですが、なぜアメリカに留学し? いや、僕アメリカに行かなかったら今はないと思いますよ。 ああ。今のKDDもなかった。 あ、もうここからの意味が全てないかもしれない。あ、 全てやっぱりその時の日本の GDPとアメリカのGDPってのは100 倍ぐらい下がったですよね。え え。ええ。 で、僕は、ま、電子工学っていうのを京都大学で勉強してたんだけど、大学院に行こうと思った時に当時の日本の大学院教育ってのはまだまだダメだった。アメリカの大学院教育ってのはこのハバードなんか含めてね、素晴らしい教育レベル。 今よりはかにギャップがあったですよね。 だから高等教育なら絶対アメリカに行きたいて。でもうちは貧乏なうちだったから。 ええ、 奨学金もらわない限りとってもいいかないです。その時にフルブライトい上員議員がそういった貧しいね。 アジアのそういった国の若手に対してジェネラスな小学金をボーンと与えたんですよね。 あ、 素晴らしい。 そのアメリカでのご経験が次々と企業ま連続企業家と呼ばれるまでのを作ったと 全くそです。アメリカに行かなかったら私は今頃年金でなんか釣りをしてしょぼしょぼって生きてたと思います。 いや、あのどういうところがアメリカと日本 1番こう違いを感じましたか? 実はね、僕あの大学を出てあの電候校舎当時 30 万人のね巨大な素晴らしい独占技術企業だったんですよね。 そこのまあ一応ねサラリーマンで入ったんだけでアメリカに行ってアメリカでね独料どうせお金なかったから小学金ちょっとしかくれませんから 独料に入って そしたら同室がねクール今の法学部の大学院生だったのね で彼と一緒に色々話してて で私はねえ ある意味でね今でも覚えてますけどねジャックに対してね はい 俺はね素晴らしい日本の ね、巨大な技術なね、独占企業からね、え、来たんだと。 ああ、なるほど。ええ、え、 で、そしたら周りだって日本だったら、おすすごいなとね。 NTT すごいねとかね。ねえ、三菱醤油すごいなって言ってくれると思ったら はい。 そのワスプのね、非常に新人深い彼が一言の元につまないっつったんですよ。なんだお前はつったん。ええ。 あ、それは巨大企業の一員化ということですか?要は守られた場所にいるのかっていうようなつまらないってどう? 僕ら日本の中で大きな企業の中で 少しずつ上がっていって ね、組織の中で了承してね、 ま、いずれ社長になるとかね、そういうプロセス取るじゃないですか。守られて、それで、しかももう大事にされて、 え、うん。 だけど、そういう生き方はその時に彼したら全くつまんないと。 はあ。あ、 そこで僕の価値観がね、もう半年わかんな。なんでこんなことで罵倒されるんだと。 へえ。 で、結局半年経ってよ、少しアメリカの社会から住んで行って分かってみたのはやっぱりアメリカという国家はフロンティア精神で ね、西武の開拓をずっとリスクを取って狼と戦いアンと戦ってね、西に取っていったじゃないですか。 はい。 彼らは常にリスクを取ってね、拡証してリスクを取って新しいことやる。そういうのが彼らの人生感のベースだったね。我々大きな中で少しずつ偉くなっていく組織と それから自分で人生かけて 時に命をかけてでもリスクを取って新しい価値を追求する。このギャップをね うん。 アメリカに住むことによって僕は獲得できた。 ああ。 もしアメリカに住まなかったらこういう KDDIの元の第2 殿で電作ろうって全く思わなかったです。 ではいよいよ千佐長さんにですね、この第 2殿で現在のKDDIを創業したですね。 このきっかけのお話あるいはその内容について伺いたいんですが、こちら千本さんからお借りした写真があるんです。これ第 2電を設立した際の写真。 え、ソニーの森田京さん、牛尾電気牛尾次郎さん、元エネルギー長官第 2殿で初代社長の森山信吾さん、そして京の稲森か和さんも早々たるメンバーの中心に千本さんが映ってらっしゃるわけですが、この時どんな気持ちだったか覚えてらっしゃいますか? いやね、そりゃね、ともかく安定してね、いいポジションをしてて、当時子供 4人いたんしみ。 はい。ええ。 え、あ、こさん、まだ小さい頃ですよね。 ちみも2人いまして、1歳と3 歳とね、あと5歳と7歳。え、 だ、うちのかはその4人か書いてね、 私もうちに帰らない人も半年ぐらいもう事業でもう泊まり込みでやってたん。 いや、ちょっと待ってください。 奥様ってその事業企業このね会社やめて企業するなんて言った時ってどんなこう反省 100% の人はそんな危ないことやめてせっかくね NTT でキャリアのいいポジションにいるのに そんなの全部捨ててやるのはね もう皆さん大反対する そうでしょうね。 でもありがたかったのね。うちの内は あそうあなたやるんだからどうせやめない人だから。 へえ。 やるんならやったらとか言ってくれたんで、 ま、救いだったですね。もうほとんど僕はダメだと思ってたんだけど。え ええ。 ま、ラッキーですね。 ま、でも、あの、当時その NTT から独立して新しい電話会社を設立するんだっていうことはある意味でこの元た会社になんていうか半期をひ返すというか、裏切りじゃないかと取られてもおかしくないようなことですね。 そうですね。 やっぱりそういう意味ではね、種のリボルトだったですよね。 うん。 だけど電者という一社しかないから 別にこの電候者っていうの素晴らしい会社でね。 だけどその人たちに対して何の憎しみもないわけね。 はい。 だけ大事なことはそれに対して稲森さんのような素晴らしい経営者が持った人が経営するフレッシュな会社を作ってそこでフェアな競争をすることによって全体の庶民がね、我々貧乏人がちゃんと電話を使えるようになる。 携帯電話を使えるようになるなるということを考えてたから NTT の人たちは素晴らしい人たちでも仕組みとか組織というものが独占であり うん。うん。 伝統的であった。それを革命的で壊しに行ったということですね。 それを一緒にやったのは今稲森和夫さん。 そう。実現させてくれたのは稲森さん。稲森さんがいなかったら日本でこの 通信大革命ってのはなかった。 当時その話を稲森さんに最初にした時っていうのはどんな反応だったんですか? 稲森さんとね、最初にこのお話したのはね、大阪にロイヤルホテルってあんですよね。 中野島に。 そのね、プラスチックのコーヒーテーブルの上で 稲森さん会社作りましょうよ。 私はね、金も経営力もないと。稲森さんはすごい経営力とすごいイノベーションの力があると。私はたまたま通信のこと分かってる。一緒になってやったら 30万人に対して2 人でもね、必ずこの会社は 1兆円になりますからつって。 ああ。で、稲森さんはどんな反応? その時さすがね。 うんとおっしゃいましたね。 すぐには返事しなかった。 それはやっぱり自分たちがね、今日っていう会社は素晴らしい会社で会社を作られてからね、その当時もう 30 年近くて全部黒字だった。で、黒字でずっとお金貯めてた。そのうちの半分ぐらいを新しい時間に継ぎ込むんだから。 確かね、役員会で全部反対した。 あ、 でも稲森さん俺やるんだつって。 へえ。 だからすっ晴らしい決出したリーダーだったですね。 なぜやると稲森さんは決めたんですかね? やっぱり稲森さんやっぱ新しい社会を作んなきゃだめだ。ここでわゆる ITの革命を起こさないと日本はダめだあ と思われたと思いますよ。 うん。 素晴らしい新年の人でしたね。 こちらのお写真拝見すると、ま、よく言えばドリームチームですけれども、ちょっと悪く考えると、こう、 1人1 人のこう、子が強すぎて、こうぶつかってしまないか、ちょっと心配になるメンバーなんですが、そういったところはどうだったんですか? いや、素晴らしい質問で実は森田さんにしろね、それからお尾さん、牛尾さん、当時あの経済導の代表事やってる若手の経営者のトップリーダーだったですね。 それからセコムの飯田さんという はい。 創業者の素晴らしい方がい、ま、そういう人たちの、ま、 1番上が森田さんだったんね。 あ、 でも森田さんも戦後派のベンチャー経営者のトップだったの。 うん。うん。うん。うん。 もっと後ろにはものすごく大きなね、伝統的な会社がいっぱいあったんですよ。 それに対するこの人たちもやっぱりね、ある種の反者であったんだね。 ああ。 で、稲森さんがそれのリーダーであって、それを人の森田、創業者の森田さん、飯田さん、牛尾さんというね、若手の反抗者たちが支えたという形ですよね。 ああ、じゃあその稲森さんが例をかけて専門さんと一緒に新しいことやるから集まってくださいって言ったら、 そう、 みんなこう言い合をせずになんていうかこう前同じ方向くっていうの もうこれは一緒になってね、稲森がやるんだから俺たちが助けないと日本は変わらない。 リスクいっぱあったんですよ。 そうですよね。 だってさんなんかはNTT のが大顧客だったんだから。 え、じゃあそのNTT がこの事件についてどう見るかわからない中で。 そう、そう。分かってたでしょ。そ消しからんと思う人いっぱいから。 ああ。 でも森戸さんはそれよりももっと大きな義がある ということで うん。 新しい革命にかけようと思って手伝ってくだかったんね。 こちらの中でのこの役割分担というのはどういう風にされていたんですか? まあね、1 番上が年寄りで森田さんがね、取締り役会議長みたいな感じで、それを脇役をその牛尾夫さんとかね、え、セコムの飯田さんが支えてで、稲森さんが長で船を引っ張っていくっていう感じだったんですね。 すごい。そう、そうメンバー。なんか森田さんが金は出すけど口は出さない。 なんかその経営について先動多くするとっていうようなそんなことまでおっしゃった。 おっしゃった。おっしゃった。最初に取締から始めた時にさっきおっしゃったようにみんなすごいキャラクターですよ。 すごいキャラクターやっぱりね。だから強烈なキャラクターの人が集まってみんな 1 つずつ言い出したら取締役てこうなっちゃうじゃないですか。船だって。 うん。ええ。 だからみんな稲さんもすごい強力な人だったし飯田さんもすごい強力な人だ。 でかそういう人たちのが集まって全部でやったらダめだと。これはね、先動は稲森にしようと。 へえ。 森田さんが言ってく 中。でもこの当時で言うと若手の稲森さんに 1人、1人ってか 1人すると。 はあ。それ だから船が動き出したんですよ。 今を思い返して1 番これは分厚い壁だった。これは大変だったっていうのはどの辺りですか? それはいっぱいありましたね。もう 5万とあってうん。 もうなことだらけだから。やっぱりね、今になって良かったなと思うんですけど、例えばね、最初に僕らは光ファイバーで 東京と大阪の間、最新の技術は光ファイバーだった。 うん。 で、その光ファイバーで東京と大阪を結で結めるところは 2つしかなかった。1箇所は新幹線の横 はい。で、もう1 箇所は高速道路、透明高速道路。あれ、中央ブリタの下に甘路があるんですよ。ええ、ええ、ええ、え、 その2つしかなかった。 はい。 で、我々最初にね、第 2点電作ってNTT に戦うファーストチャレンジャーで、で、これは国有財産みたいなもんじゃないですか。だってみんな借金で作ってたんだからね、税金で。 で、まず新幹線の JR、今で言いうJR ね、国鉄の本社に行って、技術のトップの人に会いに行って貸してくださいと。 ああ。 国民のために我々やります。お金払いますと。アメリカはそういう時にパッと貸すんだけど当然貸してくれると思ったら うん。ええ、1 ヶ月経ったらいや、貸すのはやめました。 え、あ、何が、何があったんでしょう?なんか、 これはすごい授業だから自分でやりました。 あ、そういう で日本テレコムという会社を作っちゃった。 ああ、 やだ。それちょっとくじけそうになりますね。 くじけそう。それでま、しょうがない。あと 1つ高速道路しかないって。 はい。うん。 で、高速道路団に行って総裁に会いに行って、 はい。 もうこれしかないからなんとかね、道路団の中央分隊の人の幹路に光 5 は入れさせてください。これ皆さん国の財産で作ったじゃないですかと。 必死の思いで稲さんと僕が言ったん はい。 考えときます。 考えときます。はい。 で、1ヶ月後に、 え、 いや、この授業はすごい面白いから自分でやることでやっぱ自分で やった。 そう で、これが日本高速通信という 3番手を作った。わあ。 で、で、引くとこなくなっちゃった。はい。 ね。せっかく新技術の光ファイバーとえ、 すごいコンセプトもあってビジネスプランも全部できてんのに 最初のうん。 光ファイバーを引く施設権って言うんだけど権利なくなっちゃったん。 へえ。 で、仕方ないからマイクロウェーブというのを使って山から山にマイクロを今もうなくなったですけどね。あれはセカンドベストの技術だったの。 ああ。速度落ちますよね。 速度も落ちますし、それからやっぱり山の上のこう安定立てるのが大変。 安うん。うん。うん。 資金面もやはり 資金面もさ、工事も大変。 そうか。そうか。 それでね、3者一緒にお役所から 2年後に開始しなさいって言われた。 で、片っぽ光ファイボをこうね、引くだけだから 高速道路に渡してしまいましたね。 で、我々はね、ゼロから山にね、道を作って鉄ぺにマイクラフの塔を作るできない。 2年で普通は。 そうですよね。10 年ぐらいかかるものをね、2年でやる。 で、今社長やってた高橋という社長がね、 KD の社長、彼なんか新入社員に入ってきて、 ああ、 夜冬の真中にね、コンクリート普通あったかいとこしかやらないのあっためながらね基礎を作って へえ。 山奥ですよ。 へえ。 もうそういう黒をね、その前の小寺社長とかね、高橋社長とかね、本当にベンチャーの地獄の苦労した。で、やっと同じ 2年に できて間に合っで、さっきのあれですよ。ま、チームが良かったですね。 へえ。 あの、小野寺さんとかね、さっき言った高橋さんとかね、本当にベンチャーっていうのはもう 10億の谷が必ずあるわけ。 うん。 ね。それも何千億使ってやってるから他ものすごい深いわけでしょ。 その地獄の経験した人が今の KDDI の社長会長やってるからだから成り立ちが違うんですよ。そんないいサラリーマンじゃない。 いやあ、でもこの喜びを一緒に味わったと思うとすごい ものすごい経験。 今でも40 年前久しぶりにこれ見ましたよ。まだもう感動してますよ。もうこんな苦労してだってね 99%もう過しないと思った。 こんな会話ちょっと皆さんにご紹介したいと思います。第 2 電が成功をめ、次の携帯事業へと進もうとしていた時ですね。稲森さん。 うん。 え、専門さんが携帯電話の事業を始める時に固定が長男、携帯が次難といった感じでしょうかという風に言ったところ 稲森さんは千徳君逆だよ。 うん。 これ要するに、え、携帯が長男、固定が次難 うん。うん。 そんなことまで見通してらしたっていうことなんです。 いや、すごいですよね。やっぱりそれはね、やっぱり本さんやっぱりアメリカですにね、 ええ、 あの、京制アメリカなんかでアメリカの動き見ておられた。 はい。 そういうこともあって、我々はやっぱり電気通信の革命ってのは東京と大阪、東京と札幌、東京と、え、福岡、そういうもの結ぶね、固定の長距離市街電話、それがメインだった。もう 9割ぐらい。 そう。はい。 で、自動車電話って昔自動車にたきのね。そんなのがちょろちょろあって、こんなものは 1%ぐらいだった。え、はい。 その時に稲森さんはいずれがトップなんだと。あ、 へえ。 稲さんあんなこと言って大丈夫かな? はあ。 あの、当時文字を送ることはまだできなかったんですか? できなかったです。 ですよね。もうちょっと後でポケベルとかの時代ですよね。 そう、そう、みんなちっちゃいの持ってね。 ですよね。だからまだアナログのモジュモジュールディモジュールみたいなあいう感じですよね。モデもモデもアナログのファックス。 要は当時はフックスが全盛期だったので、あの、あんまりデータを送るとかいうようことよりもえっちらおっちら情報送れるか送れないかで主に音声だったんですよ。 そうです。そうです。そうです。 え、いや、今となってみてはこのスマートフォンの時代になれば当たり前ですけども、稲さんはどこまで先が見えてる方だった? やっぱりさんは世界を見てたんですね。世界のマーケットがどうなったのか。すでにアメリカの方では携帯が少しずつ浸透してきた。で、しかも安かった。日本の携帯っていうのはものすごく高かったん。 はい。 自動車の後ろにすごいアンテナつけてね。こんなでっかいのやってたじゃないですか。 うん。うん。 その時に本さんもうアメリカの動きなんか全部見てたね、現場で。 そうなんですね。 その携帯事業で特に苦労されたのがエリアの割ということなんですが はい。このような割り当てとなったわけです。首都首都圏と東海県は非対応ということで本さんどうしてこういった割り当てになったんでしょうか? これが大門だでこれはまたねやって倒産すると思った。うん。 これは というのはね、要するに保所は今でどこもね、どこもにあたる NTT の移動体通信というもの独占でやさ。 それにやっぱり同じように新規産入をしてよろしいと。ただし全国を 2 つに割って各々で新規入を認めましょうってなったわけ。 はい。で、全国2 つに分けようとで、大きく言うと人口とか GDPで考えると東京首都権で 5 割ぐらいあるんですよ。東京とかね、関東全部入れそこで人口密集してるとで、その他 ね、だから北海道、東北、九州なんとかこの 2つに分けようとしては で、当然ね、携帯を提供する事業者としては 首都権が欲しいんですよ。だって密集してるところにはアンテナちょっとで済むじゃないですか。 あ、そうですね。 ね、北海道なんか札幌以外で、ま、カバーしなきゃいけないから人口ないのに安定いっぱい作んなきゃいけない。 はい。 だから私どもは当時セルラーって言ったの。今の AUの前ですけども、 そのセルラーは はい。 東京欲しいと首都権欲しいと。 うん。ええ。 だ、競争相手が実はトヨ田さんだったと。 ああ。はい。 トヨ田さんが携帯をやりた。だって自動車をやってるから自動車電話の延長で携帯をやりたいと。 あ、それが東海県。それで、それでいいや、それがね、その話は首都圏とその他だったのね。あ あ。はい。それ でうちは負けたの政治力で はい。 ああ。 で、うちは地方の方をやられた。ま、地方の人今ちょっと申し訳ないんだけど地方の人でそっちはでもこっちからするといっぱい投資しなきゃいけなくて うん。うん。 それで人口は少ないじゃないですか。 はい。 首都権やると人口いっぱいいるところにちょこちょこっと打てば住んじゃうからどっちも欲しかった。 うん。 で、わゆる情報で喧嘩してトヨ田さんに負けたんでしょ。 で、トヨ田さんが首都権取っちゃった。え、 で、我々は地方取った。 うん。 ところがどん電返しがあって うん。 それだけじゃなくって 豊田さんはうちはね、東海が本拠地だと。 うわあ。 首都圏と東海も取ると。 そんなそんな そんな ね。だからこっちがね 7割ぐらい、こっちが 3割ぐらいじゃないですか。 で、それで取締会で今も覚えてるけど森田さんが長の森田さんが取締会でおい、稲森なんだとお前。 はい。 こんなね うん。 まじのねコをね、取られてね、あ、 こんなことでやったの。お前は経営者としてダめだとか言って、あの温さんがどなったわけ。 あ、こんなこと納得したのかということ。 それ森さんが今でも思えてますね。 はい。 完全と立ってね。 はい。森さん見ててくださいと。 俺たちは川しかないけれども 3年経ったらね、 彼らをね、追い抜きますから。 言ったんですか?3 年経ったら我々の加入者の方がはかに多かった。 へえ。 それはどうして勝つことができたんですか? やっぱり我々はベンチャーでしょ。 第2伝点からもうあらゆるところを言って 僕らもうジベトを灰ずり回ってえ、それ こそあの両販店とかねあいうところまで電 たのそういうところに携帯を今は普通だ けどあいうのも物でないものは売らなかっ たの全部それ売りに行って全民全員やった で向こさんはあの品のいいねきちっとした 人たちだからええ 今通りきちっとやっておられた我々 がゲリラだったですよね。 うん。 それ稲森さん戦闘になってお前ら戦えとか言ってね、僕らはいとか言って 全国走り回って。 いや、じゃあその当時の取締まり役での森田さんが激行したのも うん。 それに受けて立った稲森さんも すごいですね。うん。3 年経ったら我々の方が勝ったの。 へえ。 で、今はその元々の豊さんやってるやつを吸収しちゃって Aになっちゃった。 ああ。ああ。 はい。徳島県の70歳以上の男性から戦後 80年を肌で感じたこと。私は 1970 年の大阪万博に行きました。そこで展示されていたs電話は携帯電話の進化を象徴していました。 1945 年の終戦時には電話自体が貴重だったのに今では 5G スマホが当たり前。万博で見た未来の夢が 80 年の技術の進歩と平和の大切さを肌で感じましたというメールです。 いや、素晴らしい。 その通りでね、今皆さん簡単に使ってる携帯、スマホあんじゃないですか? あれはね、僕が大学院でアメリカに行った時の大型コンピューターの機能がここに 1つに入ってるの。 うん。うん。うん。そうです。 その大型コンピューター使えために僕はアメリカに留学したのにみんなうちのおばあちゃん中もスマホ使。これは昔の大型コンピューターの機能が全部ここに入ってる。 そんな時代になったんです。

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戦後80年特別企画の第1夜。日本が焼け野原から高度経済成長を成し遂げられた原動力とは。KDDI創業者が松下幸之助、稲盛和夫らから得た金言を語る。

『戦後80年特別企画1 “激動”日本経済~偉人の言葉とは』

戦後80年特別企画の第1夜。激動の日本経済に迫る。焼け野原となった日本は、朝鮮戦争の特需を皮切りに、高度経済成長へと突入。この時代を支えた松下幸之助や稲盛和夫、盛田昭夫といった、経済界のレジェンドたちは、何を考え、どう道筋を立てていたのか。その後GDP世界2位まで上り詰めた日本が、経済停滞期から抜け出せなかったのはなぜか。
第二電電(現KDDI)、イー・アクセス(現ソフトバンク)を創業、成功させた連続起業家の千本倖生氏を迎え、戦後80年の日本経済の歩みから、これからの日本経済を展望する。

▼出演者
<ゲスト>
千本倖生(連続起業家 KDDI創業者)
モーリー・ロバートソン(国際ジャーナリスト)

《放送⽇時》
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