『天気予報』日本軍に消され被害拡大…“戦時中最悪”周防灘台風 戦後80年【報道ステーション】(2025年7月17日)
[音楽] 死者行方不明者1158人 先日中の日本を襲った最悪の台風素田台風 ここまで被害が広がった理由 それは伝えられるべき天気予報法が日本軍 によって禁じられたからです。 予報は一般には盗せません。出しません。気少完成がいてますから一切ません。虎の門にある気象庁。ここには限られた人しか立ち入ることができない部屋があります。 その中には 150 年分の観測データを始めとする貴重な資料が残されています。 こちらが気少庁で持っている 1番古い天気図になります。 第1号と言いますか、1 番最初の天気っていうことですね。 はい。はい。そうなりますね。 はあ。 はい。 最初に作られた点を見てみると 線は2本しか書かれていません。 今と比べると非常にシンプルなものです。 そしてその天気予報が新聞に掲載される ようになったのです。 [音楽] 当時も今と同じように生活の一部になって いました。しかし太平洋戦争が暗い影を 落とします。あ、1941年の12月8日 までは天気予報と確かにありますが、え、 それ以降は どこにも見張ってありません。天気予報が 消えてしまっています。 太平洋戦争勃発と同時に消された天気予報。 その当時を知る人物がいます。 先中山形所に務めていたのさん。 気象っていうのはやっぱり大人間の命を守るものである。イコール人間の命なのよ。 人の命を守るための天気予報でしたが、戦事中野さんたちは軍からある命令を受けていました。 解体予報は一般にはせません。出せません。気少完成がいてますから一切盗まで。 太平洋戦争の回線と同時に日本軍から出さ れた気象報道完成。 それにより天気や風などを伝える天気予報 法は敵に有利な情報を与えることになると して全て軍事機密となっていたのです。 [音楽] 軍が秘密にしていたことであの大災害が 起こりました。 戦争が始まり、最初の災害となった素ナ田 台風。 1942年日本のは南発生し、およそ1 週間後に九州を直撃しました。 今で言う猛烈な勢力に匹敵するほど発達した台風。勢力をほとんど落とすことなくを襲いました。それはもう恐ろしかったちもじゃないですよ。 [音楽] しっかりの 小学生の時にこの台風を経験した市に住む狼吉さん。 軍が情報を隠した結果、多くの住民が台風の情報を知らされず避難が間に合わなかったと言います。 300 人以上の人が信じるんやけんね。コ難全体で。 だから何ね、情報があったら誰もみんなみんな生きちょるいねん。正確な情報がねっと広がっちゃったら口県だけで [音楽] 700 人以上の犠牲者が出たのは台風が真夜中に接近し高しおが起こっためです。狼さんはあの日のことを忘れることはありません。 [音楽] デブが切れたあっちという電例が来たから。それで私らはまだ水が来る前に家を出ていたみたいなものに乗ってからだっと流されていく人が見えたんですよ。 それがもう一生懸命助けてくれって言うけど誰も助け行かれんであった。 うん。 実は当時気象庁はこの台風で人大な被害が出ることを予想していました。 [音楽] これは戦事中に素ナ田台風についてまとめ た資料です。 そこに書かれている特例防風警報。 甚大な被害が予想される場合のみ発表さ れるものです。 しかし、 素な田台風が接近しても日本軍が発表を 禁じていたためこの情報は誰にも届きませ んでした。 先月101歳で亡くなった田さん [音楽] 戦前から象庁に務めていました。 新聞の そのマ田さんは修の年を忘れずに言いました。 本当にこの今日のお話行所に大きな台風が来るから気をつけろという憲法って言うんですけど特報特報を開い出してるんですね。それくらいですね大事なことを決めながら一般 市民には一切が伝わらないという意味ですね。 非人的だということが言えるんじゃないかと思います。 [音楽] 増田さんは気象庁を体感後、原爆が引き起こした黒い雨を研究し、全国で講演会を行いました。かつて天気予報がなくなった時代を知る気象学者が高生に伝えたかった。それがこの言葉です。 [音楽] だから天気予報はなくなってもダめだけど あってもですね、できるだけ正確に皆さん に伝えていく。まさに研究法は 平和のシンボル。 皆さん何としても平和のシンボル天気を守るようなそういう世の中を作っていただきたい。あ、出てくれる。 [音楽] [音楽] [拍手]
死者・行方不明者1158人。戦時中の日本を襲った最悪の台風『周防灘台風』。ここまで被害が広がったのは、伝えられるべき天気予報が日本軍によって禁じられたからです。なぜ天気予報は禁じられたのか。そこには戦争と密接に関係がありました。
■日本軍が消した天気予報
東京・虎ノ門にある気象庁。ここには限られた人しか立ち入ることができない部屋があります。その中には150年分の観測データをはじめとする貴重な資料が残されています。
気象庁 深畑純一広報室長
「気象庁で持っている一番古い天気図です」
最初に作られた天気図を見てみると、等圧線は2本しか書かれていません。今と比べると非常にシンプルなものです。そして、その天気予報が新聞に掲載されるようになりました。当時も今と同じように生活の一部になっていました。しかし、太平洋戦争が暗い影を落とします。1941年の12月8日までは天気予報とありますが、それ以降はどこにも見当たりません。
太平洋戦争勃発と同時に消された天気予報。その当時を知る人物がいます。戦時中、山形測候所に勤めていた梛野栄司さん(99)です。
元山形測候所技術員 梛野栄司さん
「気象っていうのは大事な、人間の命を守るものである。予報=人間の命」
人の命を守るための天気予報でしたが、戦時中、梛野さんたちは軍からある命令を受けていました。
元山形測候所技術員 梛野栄司さん
「書いた予報は一般には見せません。出しません。気象管制がしいていますから一切見せません」
太平洋戦争の開戦と同時に日本軍から出された『気象報道管制』。それにより、天気や風向きなどを伝える天気予報は「敵に有利な情報を与えることになる」として、全て軍事機密となっていました。
■天気予報が消え…被害甚大に
軍が秘密にしていたことで大災害が起こりました。戦争が始まり、最初の災害となった周防灘台風。1942年8月21日、日本のはるか南で発生し、約1週間後に九州を直撃しました。今でいう『猛烈な勢力』に匹敵するほど発達した台風。勢力をほとんど落とすことなく列島を襲いました。
山口県宇部市に住む大亀恆芳さん(91)は小学生の時に、この台風を経験しました。
周防灘台風を経験した 大亀恆芳さん
「恐ろしかったというものじゃないです」
軍が情報を隠した結果、多くの住民が台風の情報を知らされず、避難が間に合わなかったといいます。
周防灘台風を経験した 大亀恆芳さん
「厚南地区全体で300人以上の人が亡くなっている。情報があったらみんな生きているのではないか。正確な情報が広がっていたら」
山口県だけで死者・行方不明者794人の犠牲者が出たのは、台風が真夜中に接近し、高潮が起こったためです。大亀さんはあの日のことを忘れることはありません。
周防灘台風を経験した 大亀恆芳さん
「『堤防が切れた』と伝令が来たので、家族で水が来る前に家を出た。戸板のようなものに乗って流されていく人が見えた。一生懸命『助けてくれ』というのですが、誰も助けに行けなかった」
気象庁は当時、この台風で甚大な被害が出ることを予想していました。戦時中に周防灘台風についてまとめた資料に書かれている「特令暴風警報」。甚大な被害が予想される場合のみ発表されるものです。しかし、周防灘台風が接近しても、日本軍が発表を禁じていたため、この情報は誰にも届きませんでした。
■後世に伝えたい 元予報官の願い
先月、101歳で亡くなった増田善信さん。戦前から気象庁に勤めていました。増田さんは終生、後悔の念を忘れずにいました。
気象学者 増田善信さん(当時97歳)
「測候所に大きな台風が来るから気をつけろと警報・特報を出している。それくらい大事なことを決めていながら、一般市民には一切伝わらない。非人道的だということが言える」
増田さんは気象庁を退官後、原爆が引き起こした『黒い雨』を研究し、全国で講演会を行いました。かつて天気予報がなくなった時代を知る気象学者が後世に伝えたかった。それがこの言葉です。
気象学者 増田善信さん(当時97歳)
「天気予報はなくなってもダメだけど、あってもできるだけ正確に皆さんに(予報を)伝えていく。まさに天気予報は平和のシンボルです。皆さん何としても平和のシンボル、天気予報を守る世の中を作っていただきたい」
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