【フル】鹿賀丈史・常盤貴子・宮本亞門、能登で過酷な撮影「普通の映画と違う感覚」:「生きがい/能登の声」公開記念舞台挨拶

盛大な拍手でお迎えください。 どうぞよろしくお願いいたします。皆様にマイクをお渡いたします。 はい。 では早速ではございますが、本日作品をご覧いただいた皆さんにご挨拶をお 1 人ずついただきたいと思います。生が主人公山本晋三を演じられました。たさん、お願いいたします。 え、今日は初日から、え、ご運びいただきまして本当にありがとうございます。 あの、この作品は、ま、ショートムービーですけれども、去年の 12月に都の方で、え、約 3 日間ですね。アモさんね、かけて取りました。 4 日間。4 日間ですか? はい。4日半。 うん。あ、寝てないものです。記憶が曖昧なんですけれども、 あの、ま、本当に撮影の現場っていうのはいつも大変なことが多いんですけれども、え、ま、大変なことは大変でしたですね、やっぱね。 はい。 はい。 あの、今日ご覧になっていかがだったでしょうか、皆さん、ありがとうございます。あの、ま、ショートムービー生が、それに、え、ドキュメンタリーのとの声、へということでご覧いただきました。え、本日本当にありがとうございます。 ありがとうございます。続いてņ心臓の妻子を演じられました時高子さん、お願いいたします。 はい、今日は本当にありがとうございます。 初日に来てくださるということは皆さん きっとノに対して思いのある皆さんだと 思いますので私にとってはもうもはや仲間 といった感じがします。えっと、その 私たち自身も宮本ア門監督にお声がけを いただきまして、で、本当にノと思って皆 さんスタッフもキャストももうノトのこと を思、思いを大事にする皆さんだったので すごく愛溢れる映画だったと思います。 この映画を映画になったことで多くの方々 がまたそのノに対して思いをせてくださる きっかけになると思いますので、この映画 が広く伝わっていくといいなと思います。 本当に今日はありがとうございます。 ありがとうございます。そして本作 企画脚本監督を務められました宮本ア門 監督です。お願いいたします。え、今日は お越しいただき、え、ま、本当に嬉しい です。ま、正直言いますと、東京で上映 できると思っていなかったと思ってます。 え、まずはショートフィルムであることと 、ま、ドキュメンタリーとちょっと変わっ た形ではあるのですが、え、こうやって いろんな方に取り上げていただいて、 そして、え、ま、国際のニュースでもそう ですけども、海外にも、え、その情報が 言ってるということ。ノの人たちにとって 、え、ノが忘れるんではないかという恐怖 感があった中で、え、少しでも、え、ま、 今後のこの収益も、え、ノの復興のために なりますので、今とは違う映画かもしれ ませんけども、え、皆さんと 幸せになるお互いにまだまだ未来がある よっていう気持ちにどのことも思いながら も、え、映画ができたんで今日はとても 幸せなになっております。ありがとう ございます。ありがとうございます。 ではここからのフラッシュ撮影は一旦お 休みをお願いいたします。さあ、え、昨日 本作公開しまして、この公開所に駆けつけ てくださった皆さん、時さんからも、あの 、皆さん仲間という風におっしゃって いただいておりましたけれども、まず宮本 監督に改めてになりますが、本作が生まれ た経緯、え、そしてこの本作を通じてどう いったことを伝えたかったかを聞かせて いただいてよろしいでしょうか? はい。えっと、実は言いますと、私30年 ぶりにと1本だけ映画を作ったことがあり まして、え、もう映画を取らないかなと 思っていたらあることが昨年の8月に起き まして、ま、ボランティアに行ったんです けども、そしたらば、え、物をこうやって 僕は運んでいたらばですね、アモさんは そんなことしなくていいって怒られたん ですね。あ、ごめんなさい。あ、なんか 悪いことしたかなと思いきや、あなた みたいな人はこの状況を外に伝えてほしい と、え、それが、え、ノ党が忘れされない ようにということを聞いたんです。で、 その時私は報道でもなく、え、映画を撮る 人間でもないのですいません、ちょっと 舞台なんでできませんと言って東京に帰り 、そしてその、え、数週間後、あの土砂 災害が起きたということです。それを ニュースで見ても体が震えてしまいまして 、その中で、え、映画にもあった、え、 まだ頑張らんといかんのかということを 聞いていたまれなくなって、え、無理かも しれないけど映画を撮りたいという風に、 ま、友人のプロデューサーの方にお願いを して、ま、色々思考錯誤ありましたが、え 、あの景色を取りたい、景色が綺麗だから 取りたいという生々しい姿も全て取って、 そん中でも人はどう生きていくのかという のを共に 考えていきたいということで映画を撮ることになりました。はい、 ありがとうございます。そして、あの、香賀さん、時さんにもお伺いしたいんですが、香さんご出身が石川県でいらっしゃいます。 そして時さんは朝の連続テレビ小説稀の 撮影でノを、え、訪れたことをきっかけに ノと、え、繋がりができ、そしてそのノ第 2の故郷という風にも読んでいるくらいお 2人にとっては大切な場所かと思い ますけれども、お2人のに対する思い、 そして本作のご出演を決められた理由 をさまず聞かせていただいてよろしいです か?そうですね、あの昨年の簡単に大きな 自信が起きまして、 え、僕の従がちょうど金沢と和島の間です けれども白井というところに住んでいます 。それで、え、被害がなかったのかと思っ たんですけれども、ま、さすがに元端から 電話かけるのも何かなと思って2日の日に 電話をしました。そしたら明るい声で 大丈夫だったという声を聞いてほっとした んですけれども、そのお家はあの開発2m のところなんですね。ですから津波なんか 来るともう本当に一発でアウトになるよう なところだったんですけれども、ま、ノの と言いますか、非常な人が多く、また 優しい人が多いんで、え、そういう元気な 声を聞いてほっとしたところです。あの、 私今石川県出身ということで、ま、日頃 天気予報なんかあの、見てますと、ま、 東京の天気を見てもう石川離れて随分なる んですけども、つい石川の天気どうなのか なってもう見てしまうようなそういう習慣 があって、どうか自分の心の中にやっぱり 石川初心だなというものがあるんだなと 思ってます。 え、今度の野災害というものを取り上げて、あの、何でしょうか、ま、ドキュメンタリー映画と平営ですけれども、え、エンターテイメントではあるんですけれども、え、皆様の心の中に残ってくださるようなそんな作品になればなという風に思っております。 ありがとうございます。 はい。時さんはこの出演を決められたお気持ちとそして野に対する思いも聞かせてください。 はい。えっと、元日の地震の後、私は、 えっと、3月にNHKレーの、えっと、 ドラマの撮影で知り合った人たちと一緒に 初めてのをしました。そこから、え、何と か行かせていただいていく間にやっぱり いろんなフェーズっていうものがあって、 最初はもちろんそんな段階ではなかったん ですけれども、このお話をいただいた頃は もう本当にあの、なんだろうな、皆さん それこそ生きがいをこう求め始めている 生活も仮説とかにももう入れた頃だったの で、あの、生がいを見つけ出している時期 だったので、ここういう場所で今映画の 撮影とかをしてくださったら、あの、今 ここので映画の撮影が行われてい るっていうことが皆さんの希望になるん じゃないかなって。 もうそういうことをやってもらいたいなって私がそのボランティアとかに行く中でずっと思っていた時期だったので本当にありがたいなと思ってもうそのそういうことを考えてくださるこの宮本監督の思いをなんとかこうつなげたいなと思いまして私は参加させてもらいました。 ありがとうございます。そして、あの、 石川県では6月20日から先行公開が スタートして、昨日から東京でもご覧 いただいているわけですが、あの、この 作品をまずその先に公開していた石川県の 方々がどんな風にご覧になったか もし、あの、聞かせていただきたいんです が、どのようなおか。ですね、あの、ま、 市川で、あの、喉の方でね、あの、先行 上映したわけですけれども、ご覧になった 方がちょっと僕はびっくりしたんですけど も、号泣したとおっしゃったんですね。で 、それは何でしょう?うん。やっぱこの 災害というものを思い出したり、現状の 復興というものを考えたり、やっぱそう いうことを合わせてその中スクリーンの中 で山本晋三という男がどうやって生きて いくかという、どうやって再生していくか という、そういうプロセスをご覧になって 泣したのかなと思いましたけれども、あの 、いろんな方がね、いろんな風にご覧に なるそういう作品になっております。 え、ですら皆さん今日はどういう風にご覧になったかそういう感想をね、お聞きするのも非常に楽しみにしております。 はい。ありがとうございます。 時葉さんのところにはどういったお言葉届いてますか? 私はですね、やはりあの号泣しましたって、あのもう始まって割とすぐから涙が止まらなかったって言ってくれた子がいるんですけど、その子はどこに感動したかって言うと、 1日や2 日ではこの映画の内容を感じることはできないと思う。 だからそのくらい宮本監督があの方との交流を深めてそれを映画にしてくれたっていうその思いが嬉しいっていう風にその子は言ってました。 宮本監督今のお話もありましたが監督のところにはどういった言葉が届いてますか? はい。えっと、ま、お手紙いただいた中で 、え、まだおかげで、おかげでまだ 頑張れると思いますっていうことを いただいた時にはぐっとこう来たというの が正直なとこですね。あの、やっぱり災害 関連師ということを僕は1番心配しており まして、人間ってやっぱり心がこう どんどん折れていく。あれだけの災害が 続いて折れていくのは当然あることで、 いや、今我々現大臣も東京でもどこでも いつ起こるか分からない。ま、突然家が なくなり、未来がなくなった時、どうやっ て何を目的に生きていけばいいのかって いうことが、ま、壮絶な状況ではあると。 で、その時に、ま、綺麗事でじゃあ希望が あるよなんて言い方はできないんですが、 やはり人と人が出会ってくことで何かそこ で生まれることもあるよというような映画 なんですが、ま、頑張れると思えたって いう言葉やっぱりああ、映画作てよかった なと思ったことですね。うん。 監督は今回、ま、地元の方と、ま、お話をして、その声を元にして、もちろんセリフの中にもそれが含まれてます。 もう僕、あ、時さんも何回も言ってらっしゃるからんだけど、本当に僕たちの方たちのね、あの、もう放壊した家の前でもう夏が行った時にはもう、もう下着 1 つでぼーっとリードるおじいちゃんがいて、ここが家なんだ、家なんだよって言って、ま、話が止まらなくなって大体 30分40分は皆さん話しますよね。 でも、ま、あの、家族に行ったらもこの家 はいらないって言われて、俺はでもここに 住んでたいんだよっていう人たち。そして この映画の中では、あの、前半の方で体育 館が出てきます。実際あれは、え、ま、 避難所になって中にテントが小さな点とか であと30か40あって皆さんそこに 寝泊まりしている方たちで映画を撮る場合 僕たちはまず最大限とにかく静かに、え、 祝しとご迷惑をかけずにという風に取って さんがあの真っ黒の顔してこ座ってたとこ ですね。してたらば突然その中にいたま 被災者の方々がなんか嬉しそうに覗くん ですよ。で、ちょっとあの、女監督に、 あの、あんまり嬉しそうな顔で笑顔で なさってるか思い切って、ちょっとお 手伝いできますかって聞いてみたらいかが でしょうかって言ったら、分かった、 ちょっと行ってきますって言ったら、やる わやるわって言って、うわあとまって、 あの袋をこう持ったりしてるような皆さん 、遺してる方たちです。彼らは1日でも その笑顔この一瞬でもなんかね、人と交流 できてることが嬉しそうになしていたと いうところで天さん 何もやることがないことが1番辛いのよて いう言葉が来てのはもう言勇気づけられる ことね多かったですもんね中もあの そのさんがあの住んでいたお家の横のお家 の方がススープ、温かいスープを作って くださったりとかしてみんなに本当はあげ たいんだけど毎日作ったら迷惑でしょって おっしゃったりとかも迷惑とかないです。 もう本当に皆さんありがたいばっかりです よって言って私はなんか割と社交事に 間に受けちゃうタイプなのであの ありがたいです作 いたこともありました。温まりますね。 本当にねすごい寒い時だったんですよね。 ですね、もう雪が降っちゃうので、今ここで撮影しなければということと、あとやはり解体がね、その後から進むということがあったんで、ま、全部まだ今も行くとまだ解体されてないもたくさんあるんですね、実は。ただ空飽き地になっちゃうともう思い出も記憶も どうここはこういう家だったよ。こういうものが家の中にあったよと語ってもなかなか想像できない現実があったんで、ま、僕たちはあのセットは一切なし。 全部した家の中景色をそのままという形で、ま、今回は撮影させてもらったんでご苦労もあったと思いますけど ね。今ね、お話し合った通りまさに本当に こうくさ れたものをそのままお借りして取られてい たということですけれども、そこにはま、 建築の専門家の方のお手伝いもあったり、 いろんな専門の方、地元の方の最初は まず崩壊しないようにということで少し だけはありますけども、基本的にはあとは 穴は開いたままで全部でしたもんね。そう ですね。 それと、あの、撮影中はスタッフの方はみんなヘルメットをつけまして、ま、何かあった時に、え、用事にしなきゃいけないということで、ま、そういう状況の中で撮影したわけですけれども、ま、やっぱ普通の映画とはちょっと違う感覚がやっぱありましたですね。 すごい景色でしたよね。私たちから見て、私たちは普通につものようにお芝居いするんですけど、横で用意スタートって声をかけるスタッフを見ると皆さんヘルメットかぶっているっていう。 そういう場所で撮影をしているんだっていうのをすごく感じました。 監督としてはその、ま、被災されたオで取るということにとても意味はあると思うんですが、撮影として考えるとなかなか厳しい状況ではありますよね。いかがでした。 ええ、あの電波の事情ももう全くったんで、例えばそこにこうモニターがあって見る見るじゃないですか。全然音が聞こえないんですよ。で、遠くから監督 OK出してくださいって。 オって分からず言っちゃいましたとかもそんなこ現場としては大変困難な状態ですいません。もうそれやっちゃいけないんですよね。ごめんなさい。 いや、でも大体分かるんですよ。現場の人間としては監督分かってないのに OKって言ったっていうのが やばい。やばい。それやばいですよ。 でもそれがもう愛しくて本当になんかちょっとそういうあの深刻なね場所になりがちなんですけどその監督の明るさでみんな救われて うん。ハッピーな時間を過ごせました。 本当恥ずかしいけど監督って今に奪えると もドキドキし演からとほとすんですけど もう今でも宮本監督ってえどこどこどこっ ていう感じだしあの特にあのスタートが まだまだ言えないんだよねごめんな ごめんなさいねかけて何回も監督に スタートスタート言ってくださいえ 恥ずかしいですもんなとこに出させて いただい普通はですねあの監督のはいさん いいか正明さんいか行くぞい スター うわ なんていうのが普通なんですけども 絶対できない。 あさんは そんな顔で え、行きますよ。用意スタート。 ちょっと待ってく。それや、それやばいじゃないですか?違う意味で。 いや、だからそういう意味ではね、非常にあの現場がむんですよね。あの、厳ってでんだって感じですか? そうです。そうです。 ええ、心が解放されると言いますかね。固くならないと言いますかね。え、 ちょっと弱すぎですね。そのスタートで言い方。はい。 かさんはその芝居場で何かこう感じたことですとかまご苦労があったこともしくはこう映画作りの楽しさを考え感じたことてあります? そうですね。あの、実際に、あの、前開し てるお家の前を通ったりですとか、ま、私 が住んでる家も、ま、反海してるお家なん ですけれども、やっぱそこであの、住んで た方々がいらっしゃったと、やっぱそう いうところで家の前で芝居をしますと、 あの、変になんと言いますか、細かい芝居 をするよりもその気持ちさえ持っていれば 大丈夫だろうなと思って、余計な芝居をし ないようにという風に、え、 心がけて今回はやりましたね。 今回セリフがかなり少ない役柄でもありますよね。 ええ。 はい。 ま、人生の中で1 番少ない映画だったと思うんですけれども、 ちょっと不満があった感じです。大丈夫。そんなことない。そんなことないです。ないです。はい。 宮本 監督今回、ま、もちろん舞台の演出もされて、今あの監督って言うとちょっと顔色が変わりますけれども、映画を撮られることと、そして舞台を作っていくこととまたこうできることが違うのかなと思いましたが、この映画作で感じたことというのは特に本作ではどういったことがありました? いや、舞台っていうのはなんと安全な場所にいるんだろうと思いましたね。 むしろあの、え、スタジオがあったり、 劇場があったり、その中色々作ることが できますが、あの、やはり映画ってのは 本当に人が生活してる中に入っていく、 場所に入っていくと、そしてこの映画その ものもいろんな展開するじゃないとか上映 される時にやっぱりその方向性が違うと いうか、それはあの、むしろ社会の中で 映画というのは認識されていくんだなって いうこの大きさを、ま、舞台もそうでは あるんですけど、それはすごく感じたこと もありますし、ま、あとはう うん。ま、ちょっとあの違う。ブギブギでちょっと僕出演者として出たことがあって、あの時も知ったんですけど、順番バラバラでスタートすんじゃないですか。よく役者さん平気ですよね。すいません。担人ごみたいに言ってますけど、 そういう作りになってんでしょうね。きつとね。え え、1 番最後から取ったりなんかはしますからね。 よくあれでそういう分かってない状態で芝居できますよね。 いや、分かってるんですよ。 あ、そうですか。ごめんなさいよ。ごめんなさい。 分かってます。わかってます。 そう。 あれだけ深い芝をね、突然最初にしたりするっていうこの役者さん自身が本当にそも計算を込みながらちゃんと考えていくっていうの。 でも今回はね、ずっと頭の方からず取りと言いますか、だんだんね、順番に取っていきましたよね。 そうでしたね。 ま、時さんのシーンはちょっとね、後の方になりましたけどね。 そうです。はい。はい。夏のシだったし、私 寒い。 寒い中。すごい寒い。しかも雨が降る夜中だったんですよね。 へえ。何もない田んぼの周りで 本当にましたね。 本当ご苦労かけました。もう夏の縁日の夜の楽しい思い出がずっとこの男の中で残っているっていう設定だったんであえて夏の服をね、浴衣方を来ていただきました。すいません。 浴衣姿ではい。かなりでもあの時も 12 月ですもんね。同じ月に取ってますもんね。はい。 はい。 でもだいぶ傘なんか中に着込んでたそうですね。 ええ。ま、78km 太って見えたんじゃないですかね。 え、本当に寒かったもんですから、ま、 あの、住んでる家の中ももちろん暖房は ありませんし、雨が降ってきたらもう屋根 から天井から雨が降ってくるような状態 でしたので、ま、とにかく中に行き込む しかないなと。それと撮影もあの朝早く から結構あの宮本監督も粘られたもんです から、夜中までやりまして、大体睡眠時間 が4時間くらいで、え、あの、3日間4 日間6弁で頑張りました。 というのはお店がやってないんです。ええ、別にね、 あの、経費産削減とかそういうことではなくてね、あの、やってるお店がないから、 え、お店がないから撮影時間が遅かったってこと?え、 いや、そうじゃなくて、今、今の話はそうやって寝ない、あまり寝ないでやってるんですけれども食事もロケ弁でしたというそういう、そういう話。 ごめんなさい。すいません。後でゆっくり話しちゃいます。 はい。あの、ご覧いただいた通り、本作 孤独で固くだった心臓が、ま、 ボランティアの青年と出会ったことによっ て変わっていく最近の物語りでもあります けれども、人と人が出会ってこう変わって いくという希望も描かれた作品です。 ここであの皆さんにですね、皆様のご自身の人生を変えた人について伺いたいなと思うんですがさん、そういった方はいらっしゃいますか? いや、あのこういう仕事してますと、常にこう新しい方であるとか、また新しい監督演出家ろんな出会いがあるわけですけれども、そうですね、人生を変えたという言われると僕の場合はあのもう 65年くらい前になりますけれども、金沢 で、少年が所談に入ってたんですね。ええ 、で、そこであの石本先生という非常に いい先生がいらっしゃって、それは もちろん歌を教えてくださるわけです けれども、え、子供たちの上層という ところ、そういうところ本当にこう見て くださるいい先生がいらっしゃって、ま、 その金沢少年団っていうのはあの市内のこ 小学校から約1人2人3人くらいずつこう 集まって合唱団を作ってるんですね。 ええ、ですから学校以外のあの友達ができたりとかそういう意味であの非常にいい体験をさせてもらったなと。で、そういう思いが、ま、出会いとしてね、あったというのは、ま、今日の僕の役者人生にもつがってるのかなという風には思ってますね。さの過称ってそれだけ幼い頃からもう 培われてきたんですね。 そうです。金沢の方言ってました。学校で有名だったって。歌がうまいって。 そして顔も良かったってね。 ね、おっしゃってましたもね、あの方ね。 そうですか。 はい。 言ってましたよ。 貴重なお話をありがとうございます。時さんはこう人からこう出人と出会って人生が変わったという方はいらっしゃいますか? 私はやっぱり大林市の武彦監督ですかね。 やっぱりあの映画人生というものがすごく 楽しくなったというか、あの映画の可能性 というものをすごく広げてくださった監督 で1つには映画っていうものは記憶装置で もあるっていうことを教えてくださった こともそうなんですけどそれは今回の映画 のようにあの時の喉でしか取れない絵とか 心だったっていうこともそういう記憶装置 の中にはこう納められるっていうことです し、あとこういう劇場との出会いもそうですし、その映画というものを通じていろんな人にこうバトンを渡せる場所だっていうその可能性っていうものを知れたのも、あの、大林監督の言葉は大きかったなと思います。 劇場で映画見ると記憶にこう定着して忘れないですよね。 はい。 の時に一緒に見た人だったりとかその同じ環境環境で見た人たちとのその 思いなんかみんなで大笑いしたあのシーンってすごい大笑いしたなとかすごく記憶残りますよね。教えてくださったのが大林監督だ。 そうですね。 はい。ありがとうございます。宮本監督はいかがでしょうか? はい。え、ちょっとまた映画、映画館の ような話なんですけども、僕あの銀座 生まれなのでちょうどあの新馬上の前で来 たての子なんですけども、とにかくお袋が 映画とま、舞台が好きすぎてあの日谷の 映画外でずっと労働省何回行ったかもう 立ち見でぎゅーで人を仕分けてこうやって 見てた子供の記憶やそしてここが銀座文化 劇場だった頃から来てるのでうわこの劇場 で僕が今話してるって言った。 絶対天国でおは良かったねって言ってると思いますけど、まあやっぱり思い出としてすごく僕にはしっかり入っていることでこういうね、ま、文化というかタめがね、なんかね、歴史と共に重なってくるのは僕は嬉しいですね。 でもそうした歴史のある、ま、この場所もね、その後シネスイッチにまた名前が変わって残り続けてるという。 はい。 じゃ、この界隈で映画たくさんご覧になったんですね。 見ましたよ。もう見まくりました。 そっから僕はエンターテイメントが好きになって、ハウの昔のジキュリーからフレッドアステアから全部みたい家で 1 人で踊っててで日行ったりもうやめましょう。僕の話はいいんですけどでもここら辺が僕エタめのもあの香りをえ植ってくれた。 いや、その場所でこうやって皆さん一緒にね、こう立ててることが本当に嬉しいなと改めて今実感しました。 はい、ありがとうございます。 さあ、え、そして、あの、改めてなります が、本作ご覧いただきましたこれ以上、 あの、もっとたくさんの方にも東京でも 全国でも届けたいなと思ってる方が たくさんいるんですが、本作に込められた 思い全国に伝えたいお気持ちを伺って、え 、この後フォトセッションに移らせて いただこうと思うんですが、まずさん いかがでしょうか。 そうですね、ま、こういう出来上がりのショートフィルムですけれども、ま、あの、今日ご覧になった感想をですね、あの、ご近所の方、お友達、え、に是非、え、お伝えしていただければ少しでも広まっていければいいかなと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 ありがとうございます。時さんも改めてお願いします。 はい。私がこの映画を初めて見させて いただいた時にそのノてなんですけれども 、あの元魂を描いた映画だなと思いました 。ノの人たちの強さをしっかりと宮本監督 が感じてくださって、それを映画にして くださったと思います。是非多くの方に見 ていただきたいです。よろしくお願いし ます。 ありがとうございます。 宮本監督からもお願いいたします。 はい。もう素晴らしい、え、出演者の皆さんに本当助けられてなんとか映画を感染することができました。え、またこの映画を見て是非に遊びに行って欲しいという気持ちとこのような震災はだけのことではなくこれからもしかしたら日本全国あちらこちら起きることだと思います。 突然家がなくなる、未来がなくなる。とし てどうしていいかっていうテーマも入って ますので、また年を重ねた人たちがどれ ほど魅力的であり、どれほど意味がある かっていうこともちょっとこう映画に 入れ込みたくて、え、ま、ちょっと言い方 悪いけど老とかもう冗談じゃないって僕 思っていて、にいるおじいちゃんおばあ ちゃんたちの素敵さと温かさっていうこと もあの感じていただきたいし、そういう人 をお互いに思えるボランティアも 素晴らしいし、そういう人たちが思える ことっていうのが大きく日本から配 発信して我々は本来の日本の素晴らしさをもう 1 回思い出してって欲しいなんていう風に勝手に思っております。はい、 ありがとうございます。はい、というところでお時間が迫っておりますのでここからマスコミの方向けのポトセッション写真の撮影に移らせていただきたいと思います。皆さんのマイクお預かりしまして、まずスチールの方から撮らせていただきます。あ、そうですね。 タイトルのパネルをお持ちいいただきましてはい。ちょっと持ちづらいかもしれません。すみません。お参方で持っていただいて少し寄っていただいた方がいいですか?もう少し寄っていただきましょうか? あ、ちょっと高さを合わせますね。すいません。センターがオフィシャルカメラになります。お願いいたします。 センターがオフィシャルです。では続いて目線をステージから見て左の方にください。 すいません。 ちょっと手カりが出やすいのではい、ありがとうございます。そのままただきます。 ジルさん、お声がけください。く ださい。 はい。ごいます。 ください。 よろしいでしょうか? はい。鶴の方。あ、じゃあ端の方。はい。お願いします。 ではセンターに 目線をお願いします。 ありがとうございます。 で、後方にですね、ムービーカメラがございますので、あちらに向かって手を振っていただいて、こちら動画になります。後方のムービーカメラにも目線をお願いいたします。あ、 2階の方もありがとうございます。 ムビーいただいております。いかが でしょう? の方まで。はい、ありがとうございます。 以上でフォトセッションの方は終了となり ます。ではここで舞台挨拶終了となります 。今日お越いいただいた方々に一言ずつ いただきたいと思います。はい、まず宮本 監督から今日お越しの皆さんに一言 よろしいですか?最後にはい。シのご挨拶 です。はい。え、シが1番下手なんですい ません。 いや、え、本当にありがとうございます。 ま、なんか、あのね、先ほど言った ボランティアでその状況を伝えることが 本当にできたのかどうかいつも尋問自とし ておりますが、でもまずは、え、 新たな小さなスタートでもの人たちが色々 この前もあの映画を見ていただいた方たち がスタートしてる様子を見て本当にむしろ また勇気をいただきました。え、ノトにも ちょくちょく行きます。 そして、え、誰もがみんなが幸せになれるように何かの形で、え、また映画も作り続けていきたいし、え、元気な日本になってほしいと心が願ってます。でも今日本当にまずは皆さん越しいただいてありがとうございました。 ありがとうございます。時さんからもお客様に一言お願いします。 はい。えっと、この映画ができたことによって本当に皆さんに野党を知っていただくきっかけになったのかなと思います。 この映画は、あの、今の時期に公開撮影し て公開をするんですけども、ノの震災を 描いた映画というよりは本当にさっきも 言った通りノの魂を描いた映画だと思い ます。あの、ボランティアの方々はこう、 そういう発信をする場所が意外とかして、 あの、今回の映画をご覧になった ボランティアの方も僕たちの言葉を代弁し て映画にしてくれたって言ってくださった 方もいましたし、あと中にはやっぱり被災 地で震災にあって、あの、皆し仮説だっ たりとか、避難をせざるを得なくて地元に 戻りたいけど戻れ戻れない方方もまだまだ をたくさんいらっしゃるんですね。で、 そういう方々にもそうですし、映画って いうものになったことによってを感じて いただけるきっかけになるかと思いますの で、たくさんの方に広めていただけたらな と思います。本当に今日はありがとう ございました。 ありがとうございます。最後に賀さんお 願いいたします。え、今日は本当に ありがとうございました。あの スというところはもう道が1本しかない もんですからなかなかその復興と言います かそういうところもうまくインフラの問題 もありますけれどもなかなかうまくいか ないんですね。え、少しでもこういう映画 を通じてまたそういうところに復興の手が 伸びるように、え、していけたらいいかな と思います。あの久しぶりに、え、心に 残る家雅に参加させてもらいました。え、 非常に嬉しく思っております。 どうぞ皆さん、あの、他の方々に宣伝なさってください。よろしくお願いします。今日はありがとうございます。 ありがとうございます。え、外、え、主演を務められましたさん、そしてご出演の時孝子さん、宮本門監督に大きな拍手をもう一度お願いいたします。ありがとうございました。 ありがとうございます。

鹿賀丈史、常盤貴子、宮本亞門監督が12日、都内で行われた北陸能登復興支援映画「生きがい/能登の声」公開記念舞台挨拶に登壇した。

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