文室綿麻呂と都留伎~二戸アイヌ壇の史跡とねぶた祭りの関係

どひゃー、ねぶた祭は残忍な処刑の再現!
今も続く天皇らの真実を隠蔽し支配する手口!
~根蓋=根(死)の国へ追いやる為の土かぶせの蓋ゆえ、踏んづける恰好をする踊りで、生き埋めの上に土をかけ、その上に出てこられぬように、降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた~

支配者側の説明
(^^;)

文献に登場する蝦夷語地名

爾薩体…は現在の岩手県二戸市にある「仁左平」と漢字を変えたものの地名として残っています
伊加古の本拠地ですね
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段丘の上は平坦で 人が住みやすいようになっているのに 周囲は崖って…
ここ要塞じゃん

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政実の軍勢の中に 一戸の「平糠(ひらぬか)」の者達が居たそうですが その人達は通訳を介さないとならなかったり

酒の席では アイヌと同じくイクパスイ(捧酒箆)を用いていた…とゆー記述が残されているようです(蝦夷の古代史より)

二戸市の歴史

九戸政実の乱

動画 九戸政実の乱 前編

後編

※隠された負の歴史
二戸市堀野にアイヌ壇の遺跡 

古代東北の歴史

ねぶた祭りのルーツとは

ねぶたの伝説的なルーツは、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のさいに、大燈籠・笛・太鼓などではやし立てて敵をおびき出した故事に由来

詳細

ねぶたは野蛮な悪習 ※でも実は負の歴史の戒めと魂のなぐさめ
実は惨殺されたアイヌ人縄文人らを弔う悲しい祀り!悲劇の再現をすることで戒めるためか、逆にアイヌ縄文人ら恐怖させるための支配者側の祭りだったのか?とにかく反長州の詩人の初代青森県知事は「ねぶた祭」の本当の歴史と意味を知っていた!

明治6年7月9日、菱田重喜青森県令(県知事)は、地方の旧習を野蛮な悪習とし、ねぶたを始め盆踊りなどの禁止命令を出します。

従前七夕星座祭の節、ねふたと唱へ種々の偶像を持ち出し市中を徘徊いたし候義当北方習風に候ところ、これ全く古昔蝦夷の所為、野蛮の余風賎しむべきの至りに候 あまつさへ人数相集まり、遂に争闘に及び、公裁煩わし候義歳々これ有り。 はなはだいわれなき事に候。先般五節句御廃止に付き右様の義いたすまじき義に候えども、万一心得違いの者これ有り候いては相成らず候条、尚又た改めて禁止を令し候条毎戸漏れなく触れ示すべきものなり(青森ねぶた誌 平成12年 青森市刊)

菱田重喜(長州に抵抗し、捕まり、首を切られそうになった教養人)

幕末の大垣藩士・漢詩人、明治期の官僚・裁判官。青森県権令
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長州藩士・増野精亮に捕われ伏見の陣営に連行された。菱田は長州藩伍長たちと議論を行うが、激昂した長州藩士たちが一緒に捕われていた会津藩士たちと共に菱田を斬首しようとした。6名が斬首され菱田の番となり辞世の漢詩を詠じ、それを読んだ隊長・石部誠中が菱田を救おうと動き斬首を免れた。藩兵が官軍に発砲し賊軍となり、鉄心は同月9日に菱田、桐山らを伴い大垣へ向かい、帰藩して藩論を勤皇に転換させた[13]。