【この川のほとりに】
時々思い出す、晴佐久神父の詩。
友人が「晴佐久神父様はほとんど自分ひとりだけで過ごす日はないのではないか。
必ず誰かのところに行き、誰かと一緒に食し、誰かに寄り添っておられる」
と言っていました。それぞれの場所がきっと「この川のほとり」の気分を
感じられる場になっているのだろうなと思いました。
この川のほとりに /晴佐久昌英神父
いつか 優しさをなくし
とげとげしく人を傷つけ
心がうす汚れてしまう日が来たら
また、あの坂をおりて
この川のほとりにおいでよ
みんなではしゃぎながら
はだしになって川をわたろう
つめたいのにあたたかい水が
よごれたところを
優しく洗ってくれるから
いつか 仕事がうまくいかず
人づき合いもうまくいかず
生きるのにくたびれてしまう日が来たら
また、あの駅をおりて
この川のほとりにおいでよ
みんなで炭火をおこして
おなかいっぱい
特上カルビを食べよう
初夏の夕陽が川面できらめいて
あしたはきっとうまくいく
そんな元気がわいてくるから
いつか大切な人と別れ
どこにも行くあてがなく
悲しみで真っ暗になってしまう日が来たら
この川のほとりにおいでよ
みんなで夜更けまで飲んで
笑いころげて
ころげたまましみじみと眠ろう
やすらかな川のせせらぎが
夜があけるまでずっと
子守唄をうたってくれるから
いつか歳をとり
夢を忘れ
胸のときめきを
なくしてしまう日が来たら
また 仲間に会うために
この川のほとりにおいでよ
みんなで愉快ないかだを組んで
好き勝手なものを積み込んで
旅に出よう
いのちの源から流れて来た
この川があの海へ
みんなの夢の大海原へ
運んでくれるから。
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「この川のほとり」がそんなに簡単に意図的に
出来るとは思いません。
それでも私の中に「休んだり、意欲を取り戻したり
支援を感じたり、生きていてよかったという気持ちを
とりもどしたりする空間や時間、つながりの確認の場、ほっと出来る場所」を
作りたいという気持ちがずっと存在します。
クリスチャンにとっては教会がその役割を果たしているのかも
しれません。
でも、その他の人たちにはどういうところがあるのだろう。
サークル、道場、飲み会、定期的な趣味の会、ゴスペル・・・。
昨晩、私は友人と話しながらクリスチャンの仲間たちのため、
臨床美術士の方々のため、友人たちのために「何かが必要だ」
「何かができそうだ」という感触を自分自身の中に感じながら
帰ってきました。それぞれ別々に、小さなアクションから始めて
「この川のほとり」のような休み場、遊び場、語り場、が
生まれたらいいなと思ったのです。
まだ構想は心の中のままですが、いつか実現できればいいなと
考えています。
いつか「おいでよ」と声をかけさせていただければうれしいです。
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歌は
「この川のほとり」作詞・作曲 くすのきしょうじ
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「いてくれてありがとう」はこちらです。
