時として人を傷付けるSNS。しかし、人の優しさをSNSはまだ持ち合わせている。そんな体験をした人と出会いました。

 藤崎綾子さん:「全然、予想外でした。こんなに思ってくれる方がいたのかなとちょっとびっくりした」

 そう語るのは、埼玉県に住む綾子さん。実は、綾子さんがTwitterに投稿したある文章が思わぬ奇跡を生んだのです。

 この物語の主人公は、綾子さんのお父様。杉山新一さんの職業は「挿絵画家」。1970年代から雑誌や新聞の挿絵を幅広く手掛け、「メカニックマガジン」や「ムー」「小学館の図鑑」など「少年たちの心躍る作品」を数多く生み出し続けたのでした。

 しかし、その挿絵が新一さんの作品であると世間に知られることはありませんでした。新一さんは自らをずっと「無名の画家」そう呼んでいたそうです。

 そして、新一さんは2019年1月に「無名の画家」のままその生涯を閉じました。81歳でした。

 藤崎綾子さん:「(Q.お父様はどんな存在だった?)家では冗談を常に言っているような面白い感じの父でした。いつも寝る前に父が家族漫画を描いてリビングのテーブルの上に置いてくれてる。私が朝起きて漫画を読んで気が向いた時にはお返事を書いたり、その漫画を読むのを楽しみに起きてた」

 そんな優しい新一さんですが、仕事中は全く違う顔を見せていました。

 藤崎綾子さん:「もうガラっと変わりました。リビングで楽しく話をした後に父がこれから仕事するからと仕事部屋にこもっちゃって、さっきまでの楽しく話していたノリで仕事している所に行ったら、すごく怒られましたね。入ってくるな!みたいな」

 作品はすべて手書きの水彩画。精巧に描かれたその作品。当時は鮮明な写真もCGグラフィックもありません。正面など一方向から撮った1枚の写真のみを参考に描いていたのだそうです。「見えない場所はどうなっているか想像するんだ。考えることが大事なんだよ」とよくおっしゃっていたそうです。

 職人気質。有名になることなど望まず、ただひたすら精魂込めて描き続け、無名画家のまま家族を支え抜いた新一さん。新一さんのひつぎにはメッセージを書き込んだ原画の写真を入れて見送りました。葬儀が終わり、静かな家には新一さんの作品の数々が残されていたのです。

 綾子さんは父が生きた証しとして知り合いにだけでも父の作品を知ってもらおうとTwitterに「私の父は無名でしたが絵描きでひたすら絵を描き続けた生涯でした!フォロワーの皆様良かったら私の父の絵をほんの一部ですがちょろっとで良いのでみてやって、こんな絵描きがいたのかぁと思ってくださったら嬉しいです」と書き込みました。

 藤崎綾子さん:「お葬式の次の日にTwitterを投稿したんですけども、Twitterでつながっている知り合いの方に父の絵を見て頂けたらいいなぁと思って軽い気持ちで投稿した」

 すると、瞬く間にいいねが10万、コメントは700件にも及んだのです。

 藤崎綾子さん:「(Q.(反響は)予想外でした?)全然、予想外でした。当時、子どもだった方が懐かしいとか子どものころに見たとか。こんなに思ってくれる方がいたのかなとちょっとびっくりした」

 Twitterのコメントはすべて印刷して仏壇にお供えしました。

 藤崎綾子さん:「ちょうど父の命日に夢を見まして。(父が)サインを書いてるんです。急にサインを書いていて。Twitterで反響を下さった方にサインのお返しを一生懸命しているんだなと思ってちょっと感動して、その日泣いちゃった」

 さらに、SNSの反響が思わぬ奇跡を呼び寄せたのです。

 藤崎綾子さん:「Twitterの方から連絡がありまして『どうでしょうか?』って」

 連絡の主は、縁もゆかりもない愛知県春日井市からでした。なんとお父さんの個展を開きたいという依頼だったのです。綾子さんは家に残っていた原画168点を送ることにしました。こうして開催されたのがその名も「杉山新一原画展」。生前、一度も開いたことがなかった新一さんの個展が実現したのです。

 藤崎綾子さん:「絶対行きます!とか言って下さったり、たくさん言葉は頂きましたね」

 無名画家を貫いた父親がSNSを通じて初めてその名を知ってもらった瞬間でした。

 三谷紬アナウンサー:「またもしかしたら夢に・・・」

 藤崎綾子さん:「来てくれたらうれしいですよね」

 絵を愛し、家族を愛した新一さん。綾子さんが結婚した時に新一さんからもらった絵を今も大切に持っていました。それは家族4人がそろった絵でした。

 藤崎綾子さん:「人物が4人いるんですけど、これが私たち家族なんですよ。母・父・姉・私。
[テレ朝news]